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2025.3.9「信仰はどこからやって来るのか」 YouTube

ハイデルベルク信仰問答書

問65 ただ信仰のみが、わたしたちをキリストとそのすべての恵みにあずからせるのだとすれば、そのような信仰はどこから来るのですか。

答 聖霊が、わたしたちの心に聖なる福音の説教を通してそれを起こし、聖礼典の執行を通してそれを確かにしてくださるのです。


聖書箇所:使徒言行録16章11~15節

11 わたしたちはトロアスから船出してサモトラケ島に直航し、翌日ネアポリスの港に着き、

12 そこから、マケドニア州第一区の都市で、ローマの植民都市であるフィリピに行った。そして、この町に数日間滞在した。

13 安息日に町の門を出て、祈りの場所があると思われる川岸に行った。そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。

14 ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。

15 そして、彼女も家族の者も洗礼を受けたが、そのとき、「私が主を信じる者だとお思いでしたら、どうぞ、私の家に来てお泊まりください」と言ってわたしたちを招待し、無理に承知させた。


1.信仰はどこから来るか

①信仰が足りない

 以前、教会に来られていた方からこのような話を聞いたことがあります。あるとき自分の親戚の一人が重い病にかかり、医者にも「もう治療ができない」と診断されてしまいました。そのとき、近所のある宗教団体に属する知り合いがやって来て、「どんな病気も治るから」と言って宗教の勧誘を受けたのだそうです。病に犯された本人は藁にもすがる思いで、勧められるままにその宗教団体に入信し、一生懸命に自分の病が癒やされるように祈ったと言うのです。ところが本人の病は少しも回復することなく、結局は医者の診断通りに亡くなってしまいます。そこで納得がいかないのはその家族たちでした。熱心に信仰を勧めてきたその近所の知り合いに向ってこう問い詰めたと言うのです。「あなたが言った通りに一生懸命に本人は信じたのになぜ病がよくならずに、死んでしまったのか?」。するとその人はこう答えたと言うのです。「あの人の信心がまだ足りなかったからです…」。この話を私にしてくれた方は「だから自分は宗教にはアレルギー反応がある…」と言いながら悲しい顔をしていたことを思い出します。

 神を信じて一生を送ったのに、実際に天国に行って見たら、「あなたはまだ信仰が足りませんからここには入れません」と断られてしまったら大変です。だから宗教改革の時代のカトリック教会は「教会が販売する免罪符(贖宥符)を買えば、その心配はいりません」と信徒たちに教えたと言われています。それに対して宗教改革者は「免罪符を買う必要はない。聖書はキリストを信じた者が救われると教えている」と反論したのです。


②明日の自分がどうなっているかも分からない

 今日のハイデルベルク信仰問答の問65は「ただ信仰のみが、わたしたちをキリストとそのすべての恵みにあずからせるのだとすれば、そのような信仰はどこから来るのですか」と言う言葉で始まっています。「信仰が足りない」と言う考え方が成立するのは、「信仰は私たち人間の側から出て来るもの」と考える前提があるからです。信仰が私たち人間の側の心の状態を表すとしたら、これほど不確かなものはないと言えるかも知れません。なぜなら、私たちの心ほど変わりやすく、不確かなものは無いといえるからです。私たちの心は一日の中でも朝と夜では全く違ってしまうこともあります。ましてやその人生で深刻な問題にぶつかってしまえば、意気消沈して何もできなくなってしまうことも起こります。しかも、私たちが天国に入るために懸命に頑張ろうとしても、心をそれにふさわしい状態に保ち続けるなどほとんど不可能であると言えます。「そんなことはない、私は一生変わることなく心を神に向けて生きることができる」と言う人がいても、その人が明日自分の思い通りに生きているかどうかは本人にはわからないのです。それが私たちの人生の真実の姿ではないでしょうか。

 確かな近代の医療制度の発展などで日本人の平均寿命は昔とくらべて確実に延びて来ました。しかし、それでも私たちは高齢になれば身体の衰えを感じざるを得ません。昔は簡単にできていたことが、今は難しいという悩みを持っている人も多いはずです。毎日のように川口市の防災無線から「こんな人がいなくなった」というような尋ね人の知らせが放送されています。それを聞くたびに「私も認知症になったら、同じことになるのか…」と心配するのはわたしだけではないと思います。「もし、認知症になって神様のことも、聖書のこともわからなくなったら、自分はどうなってしまうのだろうか…」。もし、信仰が私たち自身の内側から、私たちの心の中から出てくるものとしたら、私たちはこの問題を深刻に受け止める必要があるはずです。しかし、信仰問答は「その心配は無用だ」と私たちに答えています。なぜなら私たちの信仰は、私たちの側から出てくるものではなく、神から出て来るもの、聖霊が私たちの心に働くことによって生まれるものだと聖書は教えているからです。


2.私たちの信仰は聖霊の働きによるもの

①福音の説教を通して働かれる聖霊

 ハイデルベルク信仰問答の問65はこの疑問に対して次のような言葉で答えています。

「聖霊が、わたしたちの心に聖なる福音の説教を通してそれを起こし、聖礼典の執行を通してそれを確かにしてくださるのです。」

 ここには聖霊が私たちに働くために行なわれる「福音の説教」と「聖礼典の執行」と言う二つの方法があることを説明しています。実はこの問65は「聖なる礼典について」と言うテーマを取り上げる部分の最初に収録されています。つまり、信仰問答は私たちに「聖なる礼典」、洗礼式と聖餐式の二つが私たちの信仰にとってどのように大切なものなのかをここから教えるために、まず「信仰はどこから来るのか」という問いを最初に持って来ているのです。この信仰問答の言葉の通り信仰について考えるとき最も大切なのは「福音の説教」です。このことが理解されないとこれから教えられる「聖なる礼典」の意味もよく分からなくなってしまうと言えるのです。

 私が読んだこのハイデルベルク信仰問答を解説するある本によれば、中世に入って古代のギリシャやローマにあったような教育制度が崩壊して、文字を読めない人が大半を占めるようになると教会で聖書を読むことができる人も少なくなったと言うのです。そのため教会で働く司祭さえ聖書を読めないという現象が生まれたのだそうです。それで教会には聖書ではなく、キリストの十字架の姿を象った聖像や絵画が飾られ、洗礼式や聖餐式という儀式だけを行う場所となってしまいました。聖書の言葉を離れて洗礼式や聖餐式が行われるならば、それは不可思議な迷信のようなものになってしまうことになります。だから信仰問答は当時のカトリック教会の信仰生活を批判して聖霊の働きが「福音の説教」を通して働かれることをここで強調したと言えるのです。聖書は福音の説教と聖霊の働きを次のような出来事を通して私たちに教えています。

 初代教会の礎を築いた伝道者パウロの活動を伝える使徒言行録の物語の中で、彼らがフィリピと言う町にやって来て聖書に基づく福音の説教を人々に語ったときに次のような出来事が起きたとを記録しています。

「そして、わたしたちもそこに座って、集まっていた婦人たちに話をした。ティアティラ市出身の紫布を商う人で、神をあがめるリディアという婦人も話を聞いていたが、主が彼女の心を開かれたので、彼女はパウロの話を注意深く聞いた。そして、彼女も家族の者も洗礼を受けた…」(使徒16章13~15節)。

 ここでパウロが福音の説教を語ったとき、リディアと言う一人の婦人の心に聖霊が働いて、彼女の心を開かれたので、彼女もその家族も信じて洗礼を受けるようになったと言うことが語られています。聖霊がパウロの語る福音の説教を通してリディアの心に働いて、彼女に信仰を与えてくださったと言うのです。ですから自分が伝えた福音の説教を通してこのような体験を何度も経験することができたパウロはローマの信徒への手紙で次のような言葉を語っています。

「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10章17節)。

 聖霊は聖書の言葉、つまりキリストを証する言葉を聞くものに豊かに働いてくださるとパウロは語っているのです。だからこそ私たちが福音の説教に耳を傾けることは重要なことだと言えます。なぜなら、私たちはそれによって聖霊の働きを自分の心の中で受けることができ、私たちの信仰生活がその働きを通して豊かにされるからです。


②永遠の神である聖霊

 ハイデルベルク信仰問答は問53で聖霊なる神について次のような言葉で私たちに解説しています。

「第一に、この方が御父や御子と同様に永遠の神であられる、ということ。第二に、この方はわたしに与えられたお方でもあり、まことの信仰によってキリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる、ということです。」

 聖霊は「キリストとそのすべての恵みにわたしをあずからせ、わたしを慰め、永遠にわたしと共にいてくださる」神であるとこの信仰問答は教えています。聖霊は永遠に変わることのない神であられるのですから、その聖霊の働きによって私たちの内に与えられる信仰も決して変わることはないと言えるのです。だからたとえ、私たちの肉体や心の状態が変わったとしても、信仰は変わることがないと言ってよいのです。また、神である聖霊が与えてくださるものに不完全なものはありませんから、私たちは決して天国で行ってから「あなたの信仰はまだ足りない」と言われて入国を拒否されることはないと言えるのです。

 確かに私たちの心は変わりやすく、その日の天気の変化にまで左右されるような不確かなものです。しかし、だからこそ聖霊がその私たちの信仰生活を守ってくださるのです。その人の心に福音の説教を通して働き、信仰を回復させてくださるのです。だから私たちが毎日曜日の礼拝にやって来て福音の説教に耳を傾けるのもこの聖霊の治療を受けて、私たちの信仰生活の健康を回復させるためであるとも言えるのです。


3.見えるみ言葉としての聖礼典の働き

①目に見えない聖霊の働き

 聖書の中にあるときイエスの元にニコデモという老人がやって来て「神の国に入る」こと、つまり、「神に救われるためにはどうしたらよいのか」という相談を持ってやって来ました。そのときイエスはニコデモに「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(ヨハネ3章3節)と語ってくださいました。このイエスが語った「新しく生まれる」とは「霊から生まれる」(同6節)、つまり聖霊が働いて私たちの心に信仰を与えてくださることを別の言葉で表現しているものです。そのときイエスはこの聖霊の働きについて興味深い表現をニコデモに語っています。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(8節)。

 聖霊はまことの神ですから、人間がコントロールできる方ではありません。ただ、その聖霊の働きを受けた人間は信仰を持つことができたこと、また試練の中でも聖書の御言葉を通して励まされたことを通して確かに自分の心に聖霊が働いてくださったことを知ることができます。しかし、この聖霊の働きは私たちの目には見えないと言うことで、私たち人間の側からは不確かに感じられてしまうことがあります。なぜなら、私たち人間は目に見えるもの、手で触れるものを通してそれが確かであると言うように物事を確認する習性を持っているからです。神はそのような人間の弱さを私たち以上によくご存じのお方です。ですからイエス・キリストは私たちの内で働かれる聖霊の働きを確かめることができるようにと、聖なる礼典、つまり洗礼や聖餐という二つの目に手で触れる「しるし」を与えてくださったのです。


②食べることは生きること

 この聖なる礼典についてはこれからこのハイデルベルク信仰問答によって私たちは続けて学んで行きたいと思います。ただ、この聖礼典の聖餐式について私はこの間、興味深い話を聞きました。私の家内は週に一回だけ近くにあるキリスト教の要介護施設のキングスガーデンに働きに出かけています。そしてそのキングスガーデンで毎日行われている礼拝でも月に一回、聖餐式が執行されているのです。家内が言うにはそのキングスガーデンで介護度の高い人は嚥下作用、つまり食べ物を飲み込む力が衰えているので聖餐式のパンとぶどう酒にあずかることも簡単ではなく、施設の職員を苦労させているのだそうです。

 現代は医学の発展で人は口から食べ物を取らなくても別の手段で生き延びると言うことができようになりました。しかし、聖書が書かれた時代、またつい最近の日本でも、人間が生きると言うことと食べるということはほとんど同じような関係にあったと考えることができます。人間が食べることを止めてしまうと言うことは地上の命が尽きることを意味していたからです。宗教改革者のカルヴァンがキリストの福音を食べると言う形で表す聖餐式について、どんな人間も食べることを忘れることはできない、だから神は福音を私たちが忘れることがないように、この礼典を設けてくださったと教えています。

 確かに私たちは認知症になっても「食べたことは忘れても」、「食べることは」忘れないはずです。神はそのような私たちをよく知っていて、この聖霊の働きを目に見える形で表す聖餐式を与えてくださったのです。わたしたちも「これから自分はどうなってしまうのだろうか」と不安に思っているかも知れません。「もし認知症になって、何もかも分からなくなったらどうしたらよいのか」と思っているかも知れません。しかし、私たちに信仰を与えてくださった神は私たちのすべてをよくご存じの上で、私たちに聖霊を遣わしてくださり、私たちの地上の信仰生活を最後まで導いてくださるのです。いえ、聖霊は私たちのこの地上の人生が終わっても私たちと永遠に共にいてくださる方なのです。だからこそ、私たちはこれからもこの聖霊の働きに信頼して、福音の説教に耳を傾け続け、また聖なる礼典にあずかることでその祝福にあずかって行きたいと願うのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まずあなたもハイデルベルク信仰問答の問65の本文を読んでみましょう。あなたはこの問答の言葉を読んでどんな感想を持ちましたか。

2.「信仰はどこから来るのか」と言う問いに私たち自身の側から、あるいは私の心から来ると考えてしまうと、私たちは自分の信仰についてどのような不安を抱くことになりますか。

3.それでは信仰問答は「信仰はどこから来る」と私たちに説明していますか。この答に従えば私たちが感じている信仰についての不安はどう変わると思いますか。

4.聖霊なる神は私たちの心に信仰を起こすために、二つの何を用いると信仰問答は説明していますか。

2025.3.9「信仰はどこからやって来るのか」