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2025.5.11「聖なる公同の教会」

エフェソの信徒への手紙1章3~14節(新P.352)

3 わたしたちの主イエス・キリストの父である神は、ほめたたえられますように。神は、わたしたちをキリストにおいて、天のあらゆる霊的な祝福で満たしてくださいました。

4 天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました。

5 イエス・キリストによって神の子にしようと、御心のままに前もってお定めになったのです。

6 神がその愛する御子によって与えてくださった輝かしい恵みを、わたしたちがたたえるためです。

7 わたしたちはこの御子において、その血によって贖われ、罪を赦されました。これは、神の豊かな恵みによるものです。

8 神はこの恵みをわたしたちの上にあふれさせ、すべての知恵と理解とを与えて、

9 秘められた計画をわたしたちに知らせてくださいました。これは、前もってキリストにおいてお決めになった神の御心によるものです。

10 こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです。

11 キリストにおいてわたしたちは、御心のままにすべてのことを行われる方の御計画によって前もって定められ、約束されたものの相続者とされました。

12 それは、以前からキリストに希望を置いていたわたしたちが、神の栄光をたたえるためです。

13 あなたがたもまた、キリストにおいて、真理の言葉、救いをもたらす福音を聞き、そして信じて、約束された聖霊で証印を押されたのです。

14 この聖霊は、わたしたちが御国を受け継ぐための保証であり、こうして、わたしたちは贖われて神のものとなり、神の栄光をたたえることになるのです。


ハイデルベルク信仰問答書

問54 「聖なる公同の教会」について、あなたは何を信じていますか。

答 神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ。そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです。


1. 教会に対する誤解

①「教会は好きではない」

 今日はハイデルベルク信仰問答の問54から皆さんと共に学びたいと思います。この問54は「「聖なる公同の教会」について、あなたは何を信じていますか」と言う質問から始まっています。このように「教会を信じる」と言う場合に私たちが疑問に感じるのは、「私たちの信仰の対象は神だけであって、それ以外のものが信仰の対象になるのはおかしい」と言うものです。なぜなら私たちが普段、知っている教会は、誤り多き人間の集まりでしかありません。この教会に集められている人は皆、完璧な人間とは程遠い、神の御前では「罪人」としか呼ばれない人たちの集団です。だからこそ、そこには多くのトラブルが起こり続けているのです。それでは私たちはこの教会のどこを信じればよいと言うのでしょうか。

 いろいろな人とお話をしているとよく「聖書は好きだけど、教会は苦手」と語られる方に出会います。その人も最初は教会の人たちに暖かく迎えられて感激したのですが、すぐにそこにある様々な人間のトラブルに巻き込まれてしまってがっかりしてして、「もう教会には行きたくない」と言うのです。日本には「無教会主義」と名乗るユニークなキリスト者の集団があります。その集団とは全く関係ないのに自分を「無教会主義者」と名乗る人もいます。その人がそう言わざるを得ないのは、きっと現実の教会生活の中で様々なトラブルに巻き込まれ大きく傷つけられたという経験があるからかも知れません。このような教会についての現実に目を向けながら、私たちが「教会を信じる」とは言ったどういうことなのですしょうか。私たちはこの信仰問答を手掛かりにして少し、「教会を信じる」とはどういうことなのかを考えてみたいと思うのです。


②「エクレシア」=「呼び集められた者の群れ」

 まず、私たちが持っている教会に対する誤解を解くために大切なのは、本来ギリシャ語で表現される「エクレシア」、つまり日本語で「教会」と訳される言葉の本来の意味です。実はこのエクレシアと言うギリシャ語の言葉には「教える場所」、「教える集まり」などと言う意味は全く含まれていないのです。「別に教会に行かなくても、聖書は自分で勉強できる…」。それはその通りなのかもしれません。しかし、実は教会は聖書を勉強に行くためだけのところではないのです。ギリシャ語のエクレシアの意味は「呼び集められた者たちの群れ」と言う意味を持っています。つまり、私たちは今、誰かに呼ばれてここに集められている…、それが本来の「教会」と言う言葉の意味だと言えます。ですからこのことについて信仰問答はその答えの中で次のように教えています。

「神の御子が、全人類の中から、御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れを、御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ」。

 信仰問答が語っているように教会とは神の御子であるイエス・キリストが呼び集めて下さった人々の集まりであると言うことができるのです。つまり、「教会を信じる」とは言葉を変えて言えば、「イエス・キリストが私たちをこの教会に集めてくださったことを信じる」と言ってよいのです。ですから、私たちが信じるべきことは、目の前で私たちが体験している様々な出来事ではなく、その背後に救い主イエス・キリストの働きがあって、今、私たち一人一人をこの教会に集めてくださっていると言うことなのです。


2. 聖なる公同の教会

①聖なる教会

 ここで信仰問答が教会について「聖なる」と言う言葉で表現しているのはどうしてでしょうか。それは教会が人間の意志や計画ではなく、神の御心によって造られ、またその御心によって導かれているものであることを表しています。これはそこに集められている人たちが人間的に優れているとか、素晴らしい人たち、「聖人」たちの群れだと言うことを言っているのではありません。

 今日の聖書箇所のエフェソの信徒への手紙の中には「天地創造の前に、神はわたしたちを愛して、御自分の前で聖なる者、汚れのない者にしようと、キリストにおいてお選びになりました」(4節)と言う言葉があります。また信仰問答の中でもイエス・キリストが「御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れ」と言う言葉が語られています。私たちは神により選ばれ、イエス・キリストの救い御業にあずかり、この教会に集められている者たちなのです。そして教会はそのような神の御業によっているからこそ「聖なる」と言う言葉で呼ばれているのです。

 ここで「選ばれた」と言う言葉を私たちは誤解しないようにしなければならないと思います。なぜならこの世で「選ばれる」と言う言葉を使うときは、自分が選ばれる資格を持った優れた人物で選ばれなかった他の人とは違うと言うことを考えることが多いからです。しかし、聖書が語る「選ばれる」とはそのような意味ではありません。私たちは皆、神の前では罪人にしかすぎません。本来私たちは選ばれる資格のない者たちなのに、キリストによって選ばれた、つまり優れているのは私たちの救い主イエス・キリストであって、私たちではないと言うことを表す言葉が「選ばれた」と言うことなのです。だからこそキリストによって選ばれ教会に集められた私たちは、そのキリストに心から感謝をささげ、神を賛美する礼拝を続けているのです。


②公同の教会

 さて信仰問答は教会を「公同の」と言う少し私たちにとっては馴染のない言葉で表現しています。この「公同の」と言う言葉は原語では「カトリック」と呼ばれている単語です。ここ数日、私たちは新聞やテレビで「新しいローマ教皇が選出された」というニュースに触れる機会が多くなっています。先のフランシスコ教皇が亡くなり、バチカンで教皇選挙が行われて、歴史上はじめてアメリカ人の教皇が選ばれたと言われています。世界で13億人以上の信徒を抱えるカトリック教会のリーダーが選ばれたということで世間は大騒ぎになっているのです。

 「公同の教会」と信仰問答が語っているのはこのローマ教皇を頂点にするカトリック教会と言う一つのキリスト教の教派のことではありません。このことについて信仰問答は「御自身のために永遠の命へと選ばれた一つの群れ」と表現しています。つまり、キリストが呼び集めてくださった教会は、国や民族、地域の違い、また過去、現在、未来と言う時間の枠を超えて一つであると言うことが「公同の」、「カトリック」と言う言葉の意味なのです。

 今から500年以上も前にヨーロッパで起こった宗教改革の時代、当時のカトリック教会はローマ教皇を頂点とする「教会の外には救いはない」と主張していました。そしてそのカトリック教会が「聖書の教えを正しく伝えていない」と抗議した宗教改革者たちを教会から破門してしまったのです。そこで生まれたのがプロテスタント教会と呼ばれる、私たち改革派教会のルーツと言われるような新たなキリスト教会の群れです。

 当時、この宗教改革運動のリーダーのような存在であったマルチン・ルターは「まことの教会は聖書の御言葉が正しく教えられる場所であればどこにも存在する」と語ったと言われています。この言葉と同じようにハイデルベルク信仰問答はイエス・キリストが「御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において、世の初めから終わりまで集め、守り、保たれる、ということ」と語っています。つまり、本当のカトリック教会はローマ教皇という人物や組織のことを言うのではなく、イエス・キリスト「御自分の御霊と御言葉とにより、まことの信仰の一致において」集められた集団だと言えるのです。

 残念ながら地上の教会はカトリックをはじめとするたくさんの教派に分かれて現在、存在しています。しかし、それでありながらも私たちはキリストによって一つの群れ、教会に集められていることを信じているのです。それが「教会を信じる」と表現されている信仰の意味だと考えることができます。私たちが教会に集まり聖書の言葉に聞き従うことは、私たちがこの「公同の教会」の一員にされていることを表しているのです。


3. キリストの生きた体である教会

 「聖書は好きだけど、教会は嫌いだ」と言われる人の話を最初に語りました。よく考えてみると分かりますが、その人が「聖書を好きになった」のは教会や、そこで奉仕する伝道者たちの働きがあったからではないでしょうか。そのような意味で教会を否定するということは、人から聖書の福音を知る機会を奪うということにもなりかねません。そもそも、もし私たちが教会と言う存在から無関係に生きようとすれば、聖書をいくら一人で熱心に読んで、研究したとしても、その内容を正しく理解することは困難となり、独りよがりの偏った理解になってしまうかも知れません。そうなるとその人の信仰の成長も危ぶまれ、最終的にはキリストの救いが分からなくなってしまう可能性も生まれるのです。

 信仰問答は次のような言葉を語っています。「そしてまた、わたしがその群れの生きた部分であり、永遠にそうあり続ける、ということです」。

 ここで「その群れの生きた部分」と言う言葉が使われています。私たちは「教会」と言うと十字架のついた建物や、そこに集まる人の群れだけに目を向ける傾向があるかも知れません。しかし、聖書はこの教会について「キリストの体」と言う言葉で呼んでいます。最初に読んでいただいたエフェソの信徒への手紙の1章22から23節には次のような言葉が記録されています。

「神はまた、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになりました。教会はキリストの体であり、すべてにおいてすべてを満たしている方の満ちておられる場です」。

 つまり、私たちが教会に加わるということは、この生きたイエス・キリストと言う生命体の一部とされることだと聖書は教えているのです。ですから私たちが信仰者として生き、また成長させていただくためにはこの生きた生命体である教会に連なることが絶対に必要になるのです。イエス・キリストはこの関係をヨハネによる福音書で次のように表現されています。

「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」(15章5節)

 私たちはこのぶどうの木であるイエス・キリストとつながるために、イエス・キリストによって教会に呼び集められたのです。そして、私たちはこの教会の生活の中でイエス・キリストから豊かな命を受けて信仰を成長させていただくことができるのです。そのような意味で、教会を否定することはイエス・キリストとの生きたつながりを否定することになると言えます。

 また、私たちはこの教会に豊かな実を結ぶために集められてもいます。この豊かな実については様々な解釈があるかもしれませんが、最も大切なことは私たちが、私たちの人生を通してイエス・キリストから与えられた使命を果たして行くこと、「神の神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶこと」(ウエストミンスター小教理問1)であると言えます。私たちが教会に呼び集められたのは私たち信仰者が共に助け合ってこの使命を果たして行くためであると言えます。

 私たちは「聖なる公同の教会を信じる」と言うことは、この教会に集められている私たちが私たちを呼び集めてくださったイエス・キリストによって一つとされ、また生きた命のつながりの中で成長させられ、やがて永遠の命の祝福にあずかることができることを信じることだと言えるのです。

聖書を読んで考えて見ましょう

1.まずハイデルベルク信仰問答の問58の本文をあなたも読んでみましょう。信仰問答はここで教会について何を信じることを私たちに求めていますか。

2.信仰問答が教会を「聖なる」と表現しているのはどうしてですか。

3.信仰問答が教会を「公同の」と呼んでいるのはどうしてですか。

4.私たちが現実の教会生活の中で祝福を受けて成長するためには、そこで何を信じ、どのように生きていくことが大切だとあなたは考えますか。

2025.5.11「聖なる公同の教会」