2025.5.18「主の栄光とその愛」 YouTube
聖書箇所:ヨハネによる福音書13章31~35節(新P.203)
31 さて、ユダが出て行くと、イエスは言われた。「今や、人の子は栄光を受けた。神も人の子によって栄光をお受けになった。
32 神が人の子によって栄光をお受けになったのであれば、神も御自身によって人の子に栄光をお与えになる。しかも、すぐにお与えになる。
33 子たちよ、いましばらく、わたしはあなたがたと共にいる。あなたがたはわたしを捜すだろう。『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』とユダヤ人たちに言ったように、今、あなたがたにも同じことを言っておく。
34 あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。35 互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる。」
1. 弟子たちのための遺言
もう十五年以上の年月が流れましたが、茨城に住んでいた私の父から「身体の具合が悪い」と言う連絡を受けて、病院に連れて行った翌日に父はそこで息を引き取りました。おそらく父自身もすぐ自分が死ぬとは思っていなかったはずです。入院手続きを終えていったん家に帰ろうとする私を呼び止めて父は「望はまだ家に帰って来ないのか」と尋ね来たのです。当時、私の息子は不登校になり、家族や同級生の顔を見るのがいやだったせいか、家内の実家のある岐阜の義母の家で生活していました。そのとき私の父は自分の孫に久しぶりに会いたいと思っていたのかも知れません。その気持ちが込められた言葉が、父が生涯で私に語った最後の言葉になりました。
皆さんだったら自分の人生の最後にどんな言葉を家族や知人に残していきたと思われるでしょうか。私ならきっと気弱になって取り乱し、「死にたくない」とか「何とかしてくれ」と言う言葉を語ってしまうかも知れません…。
今日、聖書から私たちが学ぶイエスの言葉は、過越しの祭りの前に弟子たちと最後の食事をされたときに語られた言葉です。つまりイエスが十字架にかけられる直前に弟子たちに語ったものなのです。イエスはこの最後の食事の席で弟子たちを愛し、大切な言葉を残されました。そこでこのイエスの言葉は多くの人たちによって「イエスの遺言説教」とか「告別説教」と呼ばれてもいるのです。そしてこのイエスの遺言説教は次のような説明から始まっています。
「さて、過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移る御自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(13章1節)
このときイエスはご自分が受けられる十字架の死という出来事に向き合いながらも、最後までご自分の弟子たちを愛し抜かれたと言うのです。そしてそのイエスの弟子たちへの愛の結晶と言える言葉が聖書に記されているのです。
2.栄光を受ける
イエスの言葉をいつも誤解したり、十分に理解することのできない鈍感な弟子たちも、ここで語られるイエスの言葉を聞いて、「これから何か重大な出来事が起こるのかも知れない…」と言うような予感を感じていたはずです。「いったいこれからイエスや自分たちにどんなことが起こるのだろう…」と不安を感じる弟子たちに対して、イエスはここで「栄光」と言う言葉を使ってこれから起ころうとする出来事を説明しています。
「今や、人の子は栄光を受けた」とイエスは語っています(31節)。実はこの「栄光」とはイエスが十字架にかけられる出来事を指し示す言葉であると言えます。イエスはそのときこそ、自分が栄光を受けるときであり、またイエスをこの世に遣わした天の父なる神も栄光を受けるときだとここで説明しているのです。
それではなぜイエスが十字架にかけられて死ぬことが「栄光」と言う言葉で表現されているのでしょうか。今回、私がインターネットで「栄光」と言う言葉を打って検索をかけて見ると、まず最初に出たのは「栄光」と言う名前が付けられた予備校の広告ページでした。この世では自分の人生で人に誇ることができるようなことが実現したときに「栄光」と言ったり、「栄光を受けた」と言うのかも知れません。だからこの予備校に通う受験生にとっての栄光のときは自分の念願がかなって志望校に入学できた時だと言えるのでしょう。
実は聖書に記されたギリシャ語やヘブライ語で「栄光」はこれとは少し違った意味を持っていると言えるのです。その意味は「そのものの本当の価値が外に輝き出る」と言うものです。つまり、イエスが語る「栄光」とはイエスが救い主としてこの地上に遣わされたその本当の姿が十字架を通してすべての人に明らかになると言う意味を持った言葉になるのです。
また、イエスの十字架はイエスを地上に救い主として遣わされた天の父なる神の御心を明らかにする御業でもあると言えます。ですからこの時は同時に父なる神にとっても「栄光」を受けるときであると言うことができるのです。聖書は私たちに神がどのような方であるか、また救い主イエス・キリストがどのような方であるかを詳しく教えている書物であると言えます。だからこそ私たちはその聖書を神の素晴らしさが最もよく示されたイエス・キリストの十字架の出来事を通して理解する必要があると言えるのです。なぜなら聖書が私たちに教えようとしている真理とはこの十字架を通して、私たちを救おうとしている神の愛であると言うことができるからです。
3.新しい戒め
さてここでイエスは『わたしが行く所にあなたたちは来ることができない』(33節)と弟子たちに語ります。これは直接にはイエスがユダヤ人の宗教指導者たちによって逮捕され、十字架にかけられるときのことを語っていると考えることができます。なぜなら弟子たちは自分たちの弱さのために、逮捕されたイエスについて行くことができなかったからです。また、この言葉はそれだけではなく、この後にイエスが復活され、天に昇られるという出来事をも予言している言葉だとも考えることができます。なぜなら、そのときに弟子たちは以前のようにイエスを自分の目で見ることも、またその声を自分の耳で聞くことができなくなるからです。それでは弟子たちは結局、この世に取り残されてイエスから見捨てられて孤児のような存在になってしまうのでしょうか。その心配はいりません。ですからイエスはこのような不安を抱く弟子たちに向って「わたしは、あなたがたをみなしごにはしておかない。あなたがたのところに戻って来る」(14章18節)と約束してくださっているのです。
それではそのイエスが自分たちの元に再び戻って来てくださるときまで、弟子たちは、また今、イエスを信じて生きている私たちはどのように生きればよいと言うのでしょうか。イエスは私たちの抱えるその疑問に答えて次のような言葉をここで語っています。
「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34節)。
「お互いに憎み合うのではなく、互いに愛し合うことが大切だ」。この世の多くの人も同様な言葉を語り、また人に勧めてもいます。しかし、ここでイエスが教える「新しい掟」である「互いに愛し合いなさい」と言う教えは一般的な愛の教えではありません。この掟はイエスが再び自分たちの元に戻って来てくださることを何よりも待ち焦がれ、また期待する者たちが守るべき掟であると言えるのです。そのときまで、私たちは確かに自分の目でイエスの姿を見たり、自分の耳でイエスの御声を聞くことはできないかも知れません。しかし、その私たちもこの掟を守るなら、イエスが私たちと共に生きてくださっていることを知ることができるのです。だからこそ、イエスはこの掟を地上に残していく弟子たちに教えることで、彼らを守り導こうとされたと言えるのです。
4.皆が知るようになるために
①お互いを大切にすること
ところでこの「互いに愛し合いなさい」と言う愛の掟は、キリストを信じて生きる私たちにとって一番、悩みのもとになる教えであると言えるかも知れません。聖書を読み始めた時には「これは素晴らしい教えだ」と私たちは感動してこの言葉に従って生きようとするのですが。やがて、この言葉の通りに生きることができないことを信仰生活の中で体験して、がっかりしたり、躓いてしまうことが度々起こるのです。それではイエスはここで単なる努力目標としてこの掟を語っているでしょうか。
この「互いに愛し合う」と言う掟の言葉を聞くとき、意外と多くの人が「愛は自然と自分の感情の中で生まれてくるものであって、誰かに命じられても人を愛するということはできない」と考えています。実はこれは聖書の語る「愛」と言う言葉を、私たちが普段の生活で抱く好き嫌いの感情を表すような言葉として考えてしまうことから起こる誤解であると言えます。聖書が語る「愛」は私たちの心に自然と生まれてくるようなものと言うよりは、自分の意志的決断を伴うようなものだと考える方がよいのではないでしょうか。
イエスは人々から「山上の説教」と呼ばれているお話の中で「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい」(マタイ5章44節)とも教えています。自分を苦しめる敵についていくら考えても、そこに自然な愛情が生まれて来る可能性はありません。返って、私たちの心には憎しみだけが益々大きくなっていくだけです。つまりこの場合も私たちの「意志」を伴った生き方をイエスは「愛」と言う言葉を使って教えていると言えるのです。
私は日本語の専門家ではないので確かなことは言えないのですが。日本で「愛」と言う言葉が一般的に使われるようになったのは明治期以降で、つまりキリスト教や西洋の文化が輸入され始めたころからだと言われています。ですから江戸時代以前には「愛」と言う言葉が、日常の言葉として用いられることはあまりなかったのです。それでは今から500年ほど前にヨーロッパから日本にやって来て、当時の日本人にキリスト教を伝えた宣教師たちはいった「神を愛すること、また隣人を愛する」と言う聖書の教えをどのような言葉を使って教えたのでしょうか。
彼らが日本にやって来て、当時の庶民たちの生活を観察し、またその言葉を聞いて考え出したのは「御大切」と言う言葉でした。宣教師たちは神の愛を「神の御大切」と訳して、キリスト教を伝えようとしたのです。これはある意味で聖書が教える「愛」と言う意味を理解させるとても優れた訳語であると言えます。神はイエス・キリストを十字架にかけられました。そのことを通して私たちを神が御大切にしてくださることが分かったのです。そしてこれこそが聖書が私たちに教える真理であると言えます。
そこでこの「御大切」と言う言葉をここでイエスの語る新しい掟の訳語として使うならば、「互いにお大切にし合いなさい」と、そう読むことができます。まさにそのような意味で、この「互いに愛し合う」と言う言葉は、人間の抱く好き嫌いの感情から生まれてくるようなものではなく、私たちが互いにその存在を大切に扱うという、私たちの意志的決断を求める掟であると言えるのです。
②イエスの変わらない愛
さて、その上でこの「互いに愛し合いなさい」と言うイエスの語る新しい掟を考えるときに大切になるのは、この掟が「新しい」と言う言葉で表現されているところです。別に聖書を知らなくても、誰も「互いに愛し合うこと」が大切であることを知っています。それなのにこの掟はなぜ「新しい」とここで言われているのでしょう。それはこの掟の根拠がこの言葉を語っているイエス・キリストの愛に基づいているからだと言えます。だからイエスもここで「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」と続けて語っています。
ただここでイエスが語る「わたしがあなたがたを愛したように」と言う言葉の意味は単に「自分の真似をしないさい」と教えているのではありません。私たちがいくらがんばっても、神の御子であるイエスの真似をすることは出来ないはずです。ここで大切なのはイエスが実際に、私たちを愛してくださっているという事実であると言えます。イエスはここで空虚な勧めの言葉だけを語っているのではありません。イエスは実際にご自身の命と引き換えにするほど、私たちを愛してくださっています。そしてその愛は私たちに何があっても変わることがないものだと言えるのです。
最初に申しましたように、「互いに愛し合いなさい」と言うこの掟は私たちの信仰生活に新たな悩みを起こす原因となることがあります。「もし、イエスがこんな掟を残さなかったら、私たちはもっと楽な気持ちで信仰生活を送ることができるはずだ」と考えてしまうことさえあるはずです。
私たちにも「互いに愛し合いなさい」と言うイエスの掟に従いたいという気持ちはあります。しかし、いざそれを実行しようとすると、他人を憎んだり、その他人を赦すことのできない自分の弱さが明らかになって来るのです。そして自分で自分の姿に呆れ果てる、私たちはそんな経験を度々、信仰生活の中でしているのではないでしょうか。
しかし、ここで大切なのはそれでも私たちを愛してくださる主イエスの愛が変わらないと言うことです。イエスは私たちがどんな失敗を犯しても、どんなに愛のない姿を人々の前に曝け出しても、私たちを見限ることは決してありません。むしろ、イエスは私たちを永遠に変わることのない愛で愛し続けてくださる方なのです。ですから「新しい掟」とはこのイエスの私たちに対する変わらぬ愛によって成り立つものだと言えます。イエスはどんなに私たちが失敗しても、私たち愛し、私たちと共にいてくださって、この「新しい掟」に私たちが再び従うことができるように導いてくださる方なのです。
「互いに愛し合うならば、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、皆が知るようになる」(35節)。
私たちを「ああ、あの人たちは立派だ」と世間の人々が認めてくれたとしても、それだけではイエスの弟子としての証拠を示したとは言えません。むしろ世間の人々は私たちに対して、なぜ彼らはあんなに愚かなのに、あんなに失敗を重ねて生きているのに自分に絶望することなく、希望を持っていきるのか…と、疑問に思うかも知れません。そしてその私たちを通してこそ、私たちを愛して、私たちを見捨てることなく、私たちと共に生きてくださる主イエスの姿がこの世に示されることを私たち信じているのです。そのためにも私たちはイエスの弟子としての歩みをこの新しい掟に従いながら続けて行きたいと願うのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスは過越祭の前にご自分がこの世から父の元に移る時が来たことを悟ったときに、弟子たちにどのようなことを示されましたか(13章1節)。
2.イエスを裏切るためにユダが食事の席から外に出て行ったとき、イエスは「今」どのような時が来たと言われましたか(31~32節)。
3.イエスはこれから弟子たちが自分を捜そうとしても、どのようなことが起こると預言されていますか(33節)。
4.イエスはご自分を探しても、イエスのいる場所に行くことができない弟子たちに、どのような掟を与えられましたか(34節)。
5.どうしてこの掟をイエスは「新しい」と言われているのでしょうか。この掟とこの掟を教えてくださったイエスとの関係はどのようなものだと言えるのでしょうか。
6,イエスは弟子たちがこの掟を守るなら、「皆は弟子たちについて何を知るようになる」と言われましたか(35節)。