2025.5.25「すべての人を一つにしてください」 YouTube
ヨハネによる福音書17章20~26節(新P.203)
20 また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします。
21 父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります。
22 あなたがくださった栄光を、わたしは彼らに与えました。わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためです。
23 わたしが彼らの内におり、あなたがわたしの内におられるのは、彼らが完全に一つになるためです。こうして、あなたがわたしをお遣わしになったこと、また、わたしを愛しておられたように、彼らをも愛しておられたことを、世が知るようになります。
24 父よ、わたしに与えてくださった人々を、わたしのいる所に、共におらせてください。それは、天地創造の前からわたしを愛して、与えてくださったわたしの栄光を、彼らに見せるためです。
25 正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています。26 わたしは御名を彼らに知らせました。また、これからも知らせます。わたしに対するあなたの愛が彼らの内にあり、わたしも彼らの内にいるようになるためです。」
1.弟子たちのためのイエスの祈り
先日、このヨハネによる福音書の箇所を説教している一人の牧師の文章を読んだときに、大変、興味深いお話が紹介されていました。その牧師のお父さんはお医者さんで、その牧師が子どもの頃にたいへんに難しい病気に罹ったと言うのです。そこでお父さんは懸命に息子の治療を行ったのだそうです。その治療の甲斐があって、病も癒されました。その後、お父さんは大人になった息子の立派に育った姿を見るたびに、「お前を俺が治した」と誇らしく自慢するのだそうです。息子が難病から回復して元気になったと言うことを通して医者としての自分の腕が証明されたからと考えたからです。その牧師はこのお話をしながら、私たちが神の栄光を表すということの意味を説明しています。私たちが魂の名医であるイエス・キリストによって救われたこと、それ自体が、イエスの御業のすばらしさを示しのです。だから私たちはイエスに救われたと言う自分の存在を通して神の栄光を表すことができると言うのです。
私たちはかつて罪によって死と滅びの淵に立たされていた者たちでした。しかし今、私たちはイエス・キリストによって救われて、神の子として生きることができるようにされているのです。それこそが私たちの神のすばらしさを表す出来事だと言えるのではないでしょうか。ですから私たちが神の栄光を表すということは、自分が何か特別のことをすることではなく、私たちが神に救われた姿を喜び、それを世に証することであるとも言えるのです。
私たちは今、イエス・キリストが十字架にかけられる前の晩に、弟子たちと共に食事をされた席で語られたお話について学んでいます。この席で主イエスはご自分がこれから十字架にかけられるという出来事が迫っていることを自覚されながらも、最後までご自分の弟子たちに限りない愛を示されようとされたのです。やがて、弟子たちは自分の目でイエスの姿を見ることも、また自分の耳でイエスの声を聞くこともできなくなります。主イエスはそれでも弟子たちが孤児ではないことを、いつも信仰によって自分と繋がっていることを弟子たちに教えようとされたのです。そして、今日の部分では主イエスが弟子たちのために天の父なる神に祈る、その祈りの言葉が記されています。イエスは誰よりもこれから世に残る弟子たちに何が必要であるかをご存知のお方でした。そして父なる神はイエスの祈りをそのまま実現させることのできる力をお持ちの方です。それではイエスはこのとき父なる神に対して、どのような祈りをささげたのでしょうか。そしてそれはどうして世に残される弟子たちにとって大切なものであったと言えるのでしょうか。私たちはこの時間にそのことについて聖書から少し学んでみたいと思います。
2.イエスと共にいることができるように
「また、彼らのためだけでなく、彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」(20節)。
ここでイエスは「彼らのためだけでなく」、つまりご自身の弟子たちだけではなく、「彼らの言葉によってわたしを信じる人々のためにも、お願いします」と祈っています。このヨハネによる福音書が記されたのは早くても紀元100年ごろと考えられています。ですから新約聖書の中では最も後になって記された書物と考えられているのです。この当時、イエスの弟子たちの大半はすでに天に召されていて、教会に集まっている人々はその弟子たちの信仰を受け継ぐ、つまり二世や三世の教会員であったと考えることができます。つまり、この福音書を記した著者はこのイエスの祈りが、弟子たちのためだけではなく、今、この福音書を読んでいる読者たちのためのものでもあることをここで明確に示そうとしています。そのような意味では、ここに記されたイエスの祈りは、今もなお天に留まり、私たちのために執り成しの祈りをささげてくださっているイエスの祈りであると考えることができるのです。
それではイエスは今、この福音書を読んでいる私たちのために何を祈ってくださっているのでしょうか。今日の部分では大きく分けて二つの祈りの課題が取りあげられているのが分かります。一つは「イエスと父なる神が一つであるように、そのイエスを信じる者たちも一つであるように」と言う祈りです。もう一つはそのイエスを信じる者たちが「わたしのいる所に、共におらせてください」、つまりイエスがおられる同じところで一緒にいることができるようにしてくださいという祈りです。
このヨハネによる福音書はイエスの生涯と言動を記しながらも、同時にこのヨハネによる福音書が記された時代の状況を反映させるという興味深い表現をしています。たとえば、9章で生まれたときから目が見えない盲人が登場しています。彼はイエスによってその目が見えるようにされるのですが、このことでユダヤ人の指導者たちと対立することになりました。そして結局彼は、ユダヤ人のコミュニティーから追放されることになってしまいます(34節)。実は、キリスト者がユダヤ人のコミュニティーから正式に追放されるのは、このずっと後に、このヨハネの福音書が書かれた時代に起こったと考えられています。つまり、このような処置は福音書を読んでいる人たちが今まさに体験している出来事であったと言えるのです。
当時、ユダヤ人の宗教は支配者であるローマ帝国から公認されて保護されていました。ですからそのコミュニティーから追放されると言うことは、そのローマの保護も失ってしまうと言うことになるのです。私たちは海外旅行をするとき日本政府が発行したパスポートを持っていくはずです。パスポートを持っている者はどこの国に行っても、そこに存在する日本の領事館や大使館に申し出れば、日本人として保護を受けることができます。当時のキリスト者はこのパスポートを失った人たちのように、誰からも保護されないという危険な立場に立たされていました。
この彼らにとって主イエスの「わたしのいる所に、共におらせてください」と言う祈りは、キリストを信じる者がそのキリストがおられる天に国籍を持つ者であり(フィリピ3章20節)、彼らがどこに行ったとしても天の国の国民として守られることを保証すると言うことなのです。このようにイエスはこの地上に残る弟子たちを、そして今もこの地上で信仰生活を送る私たちをあらゆる危険から守り、生きることができるようにと、神からの保護を祈り求めてくださっているのです。そして私たちは天の国籍を持つ者のとして、やがては天におられるイエスの元に行くことできるようにとも祈ってくださっているのです。
3.イエスを信じる者が一つになる
①神の愛を世に示すために
さて話が前後しますが主イエスはここでイエスを信じる者たちが一つなるようにと祈っています。
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください。そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」(21節)。
この祈りの後半部分にも「正しい父よ、世はあなたを知りませんが、わたしはあなたを知っており、この人々はあなたがわたしを遣わされたことを知っています」(25節)と言う言葉が記されています。神を知らないこの世の人々は、キリストを信じる者たちに対して迫害や追放と言う形で厳しい姿勢を示します。それではそのような世に対して、キリストを信じる者はどのような姿勢で、またどのように生きることが求められているのでしょうか。それを教えているのが「すべての人を一つにしてください」と言う主イエスの祈りです。
戦国の武将の一人毛利元就は「一本の矢は簡単に折れるが、三本の矢がまとまったものは簡単に折れない」と言うことを息子たちに教えたと言われています。イエスもまた、キリスト者が一つになることで、神に敵対する世と戦うことに備えよと教えたのでしょうか。イエスはここで「そうすれば、世は、あなたがわたしをお遣わしになったことを、信じるようになります」と言っています。つまり、天の国籍を持っている私たちが、主イエスによってこの世に派遣されていることをこの世の人々が信じるようになるためだと言っているのです。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3章16節)。
私たちに与えられている使命は世と戦うことではなく、この世を愛してくださっている神を人々に示し、またその神を信じる者が新たに生まれるようにすることです。そしてそのためには、まず私たちが一つになることが大切であることを主イエスはここで教えているのです。先日の礼拝でイエスが私たちに与えてくださった「互いに愛し合いなさい」と言う新しい掟について学びました。これは私たちが互いの存在を受け入れて大切にすることを勧める掟です。主イエスはこの掟を守る私たちを通してこの世の人々を愛し、大切にしている神の御心を人々に示すことができるようにされたのです。そのような意味で「一つになる」とはキリストを信じる者がこの新しい掟に従うときに実現することだとも言えるのです。
②個性を無視した形ばかりの一致ではなく
ところでここで大切なのはキリストを信じる者が一つになると言うことはどういうことかと言うことです。実は今から80年以上前に日本ではそれまで様々な教派に分かれて活動していたプロテスタント教会が「日本基督教団」と言う名前の元に一つにされると言う出来事が起こりました。キリストを信じる者が組織的に一つになると言う出来事がこの時に実現したのです。しかし、この教団の成立はキリスト者の自発的な呼びかけではなく、当時、戦争へと突き進む日本の政府が法律を改正して、ある意味強制的になさせたものでした。つまり、日本のキリスト者を国家の統制のもとにおいて戦争に協力させるためにこのような団体が作られたのです。
ところがこの日本キリスト教団は戦争が終わっても解散することなく、現代の日本でもプロテスタント教会の中で最大教派として存在しています。それはこの教団の結成の理由はともかくとして、この団体は「すべての人を一つにしてください」と言うイエス・キリストの祈りを実現させるものだと考える人々がいたからです。しかし、私たちの日本キリスト改革派教会を創立した人々は戦後すぐにこの教団から脱退し、小さな教派を作りました。ですから当時の創立者たちは教団に残った人々から「分裂主義者」と非難されることになったと言うのです。
それではどうして改革派教会の創立者たちはあえて「分裂主義者」と言う非難を受けながらもこの教団から脱退したのでしょうか。それはおそらくこの「すべての人を一つにしてください」と言うイエスの祈りに対する理解の仕方が教団に残った人々と違っていたからだと言えるかも知れません。
イエスはこの「すべての人を一つにしてください」と言う祈りの前に「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように」と言う言葉を語っています。これは父なる神とイエス・キリストが一つであるということを語っています。キリスト教では自分たちの信じる神を「父・子・聖霊なる神」と呼び、それを「三位一体の神」と言う神学用語で表現します。父と子と聖霊はそれぞれ自分で考え、自分で行動することによって神が御一人であることを私たちに示してくださるという教えです。つまり、父なる神も子なる神であるキリストもその人格(位格)や働き方はそれぞれ異なっていて、それぞれユニークな存在であるのですが、その神としての働きは見事に一つに調和しているのです。
改革派教会の創立者たちが大切にしたのは自分たちの個性、つまり歴史的な改革派教会が引き継いで守って来た聖書や信仰についての理解の仕方でした。彼らはそれを大切にしながらキリストに仕えようとしたのです。そのような意味で、創立者たちは決して分裂主義者ではなく、自分たちの教会の伝統を守りながら「一つになる」というイエスの祈りに答えようとしたことが分かるのです。このような意味で「一つになる」と言う祈りは、この世に存在する全体主義の国家のようにすべての人を画一化して個性を奪うようなものでは決してありません。
そしてこれは教派間の問題だけではなく、私たちの教会の活動においても同じであると言うことができます。私たちはここに集められている人のそれぞれの個性を大切にしながら、一つとなって、キリストの御業を世に証する使命を担っています。実際にこの世において私たちが一つになると言うことは決して簡単ではありません。むしろ、私たちが無理をして一つとなろうとするなら、お互いの個性をつぶし合うようなことも起こるはずです。
私たちが最後に覚えたいのは「すべての人を一つにしてください」とイエス・キリストが私たちのために祈ってくださっているという事実です。イエス・キリストは「あなた方に任せるから」とは私たちを突き放している訳ではないのです。むしろこのことをご自身の祈りの課題として取り上げ、父なる神にこの願いが実現するようにと祈られているのです。ですから「すべての人を一つにしてください」と言う願いもまた、神御自身の御業であると言うことできます。ですから私たちはこの神の御業が実現することを待ち望みつつ、今置かれた場所で、神の愛をこの世の人々に証する使命を担っていきたいと思うのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスは父なる神への祈りの中で弟子たち(彼ら)のためだけではなく、だれのために願うと言われていますか(20節)。
2.イエスは父なる神と自分との関係と同じように、イエスを信じる者たちがどのようになることを願われましたか。そしてそれは何のためだと教えてくださっていますか(21節)。
3.イエスは父なる神が御自分に与えてくださった人々(イエスを信じる人々)がどこにいることができるようにと願われましたか(24節)。
4.イエスはご自分に対する父なる神の愛がキリストを信じる者の内にあり、主イエス自身も彼らの内にいるようになるために、何を知らせ、またこれからも知らせ続けると言っていますか(26節)。