2025.6.1「天に昇られる主イエス」YouTube
ルカよる福音書24章46~53節(新P.161)
45 そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて、
46 言われた。「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。
47 また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、
48 あなたがたはこれらのことの証人となる。
49 わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」
50 イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。
51 そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた。
52 彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、
53 絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。
1.主イエスの昇天とは…?
①ルカによる福音書と使徒言行録
今日は教会のカレンダーでは「昇天の主日」と言う名前が付けられています。この名前の通り今日は復活されたイエス・キリストが天に昇られたことを記念する礼拝を皆さんと共にささげます。使徒言行録によればイエスは復活された後、40日に渡ってこの地上に留まれれた(1章3節)と記されています。実はこの使徒言行録を記したのは、今日、私たちがテキストとして読んでいるルカによる福音書を記したルカであることが知られています。ルカはイエス・キリストの生涯を記した福音書を記した後に、その続編として使徒たちの働きを報告する使徒言行録を書いたと言われているのです。そしてその福音書の最後と使徒言行録の最初にルカはイエスが天に昇られたと言う「昇天」の出来事を記しています。つまり、それだけ主イエスの昇天はイエスを信じる者たちにとって大切であることをルカは教えようとしていると考えることができます。それでは主イエスの昇天とはいったいどのような出来事だったのでしょうか。また、その昇天はイエスを信じて集められている私たちにとって、さらにはキリスト教会にとってどのような意味を持っているのでしょうか。そのことついて今日は皆さんと少し考えてみたいと思うのです。
②心の目を開かれたイエス
まず今日の聖書の部分で興味深いのは45節で「そしてイエスは、聖書を悟らせるために彼らの心の目を開いて」と語られているところです。当時のユダヤ人は子どものときから聖書を教えられ、よく知っていました。しかし、聖書をよく知っている人がイエスを信じることができた訳ではありません。その証拠にイエスを十字架にかけたユダヤ人の指導者たちも聖書の専門家たちでした。彼らは日ごろから聖書を熱心に研究していましたが、その聖書を正しく理解することができませんでした。そしてそれは彼らの能力が低かった訳ではありません。
東大の西洋古典学科では聖書をギリシャ語原語から詳しく調べて研究している人がいます。しかし、彼らは聖書を人類の知的遺産の一つとして研究しているのであって、信仰のために研究しているのではありません。それでは聖書を正しく理解し、その聖書が証しているイエス・キリストを信じることができるためには何が必要なのでしょうか。ルカはそのことについて「イエスが心の目を開かれる」と言う言葉を使って教えています。
私たちがイエスを信じることができたのは、私たちの能力が人より優れていたからではありません。イエスが私たちの「心の目を開いて」くださった結果なのです。ですから私たちは既にイエスに心の目を開かれた者として、その御業を私たちになしてくださったイエスに感謝をささげます。また同じようにイエスが現在、私たちが福音を伝えている人々の心の目を開いてくださるようにと、祈り求めて行くことが大切なことをこの言葉から学ぶことができるのです。
2.あなたたちは証人となる
さて、御自分が天に昇られることを間近に控えたイエスは次のような言葉を地上に残される弟子たちに語っています。
「次のように書いてある。『メシアは苦しみを受け、三日目に死者の中から復活する。また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる』と。エルサレムから始めて、あなたがたはこれらのことの証人となる」(46~48節)。
ここでイエスは「次のように書いてある」と言われていますが、その後の二重鍵カッコで括られた部分の言葉がその通り記されている聖書の箇所はどこにもありません。これは聖書のどこかの引用と言うよりは、聖書全体が語っていること述べていると考えた方がよいでしょう。旧約聖書が教えていることは、イエス・キリストを通して実現した、神の救いの計画です。その意味では旧約聖書は新約聖書と全く同じメッセージを私たちに伝えていると言うことを私たちはこのイエスの言葉からも理解することができるのです。
ここでも興味深いのは「また、罪の赦しを得させる悔い改めが、その名によってあらゆる国の人々に宣べ伝えられる」と語られています。これはイエスの昇天の後に聖霊降臨の出来事を体験して活動を始めた弟子たちの行う宣教活動について預言しているように読むことができます。しかし、ここでイエスはその弟子たち「あなたがたはこれらのことの証人となる」と語っています。つまり、ここで語られている宣教活動は弟子たち自身が行うものではなく、誰か別の人が行うもので、弟子たちはその誰かがしていることを人々証言する役割を担っていると言っているのです。
ここでイエスが言っていることはイエスが天に昇られた後も、変わることなく人々に福音を伝え、彼らを導く方はイエス・キリストご自身の働きであると言うことができます。そのような意味で私たちは今も、私たちの教会を通して働いてくださっているイエス・キリストの御業を世の人々に証するために立てられている証人であると言えるのです。そしてイエス・キリストが私たちの住む地上でその御業を行うために送ってくださるのが聖霊なる神であると言えます。だからこそ、弟子たちはイエスと父なる神がその聖霊を送ってくださるときまで待つ必要があることをイエスは次の言葉で教えているのです。
「わたしは、父が約束されたものをあなたがたに送る。高い所からの力に覆われるまでは、都にとどまっていなさい。」(49節)
このように主イエスは弟子たちやキリスト教会に聖霊を送ることを通して今も、その福音宣教の活動の主人公として働いてくださるのです。そして私たちはそのイエスが確かに今も、働いてくださっていることを証する証人であることがこのイエスの言葉で分かるのです。
3.天とはどこか?
①天と地
さて、ルカによる福音書はこの後、主イエスの昇天の出来事を次のように簡単に報告しています。
「イエスは、そこから彼らをベタニアの辺りまで連れて行き、手を上げて祝福された。そして、祝福しながら彼らを離れ、天に上げられた」。(50~51節)
さらにこの同じ出来事をルカは使徒言行録の冒頭でも次のように記しています。
「こう話し終わると、イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。」(1章9節)
この表現を文字通り捉えて、イエスは空のはるか上、つまり宇宙空間のどこかに行かれたと考えてしまうとおかしなことになるかも知れません。かつて、人類で初めてロケットに乗って、宇宙空間に飛び出した無神論者の宇宙飛行士はそこで「どこにも神はいなかった」と語り、「神がいないということがこれで証明された」と豪語しました。しかし、これは聖書が語る「天」と言う言葉の本当の意味を知らない者が陥る誤りであると言えます。聖書が語る「天」とは宇宙空間のどこか一部を指す言葉では決してありません。むしろ天とは神がおられる場所であり、その点で私たちが住む「地」と区別される場所であると言えるのです。
②天に戻られたイエス
イエスは神の子として天からこの地上にやって来てくださり、人としての生涯を歩まれました。そしてそのイエスは十字架で死んだ後に復活され、再び天に昇られたのです。聖書にはイエスの御業によって死から再び甦った人が他にもいたことを紹介しています。たとえばマリアとマルタの弟であったラザロはその一人であると言えます(ヨハネ11章)。しかしこのラザロがその後、天に昇ったという記録は聖書のどこにも記されていません。おそらくラザロはその後、すべての人と同じように地上の生涯を終えたと推測することができます。しかし、復活されたイエスは違いました。彼は弟子たちが見ている前で天に昇って行かれ、やがて彼らの目では見ることができない存在となられました。それはイエスがこの地上での活動を終え、神のおられる場所に帰って行かれたことを示しています。
ですからルカは主イエスが昇天された後の弟子たちの変化を次のように紹介しています。
「彼らはイエスを伏し拝んだ後、大喜びでエルサレムに帰り、絶えず神殿の境内にいて、神をほめたたえていた。」(53節)
ユダヤ人は神以外のものを拝むことを固く禁じられていました。神以外のものを拝むことは神に対する冒涜であり、最大の罪と教えられて来たからです。その彼らがここで「イエスを伏し拝んだ」と語られています。つまり、主イエスの昇天を通して彼らは自分たちと共おられたイエスが、天の神の座からこの地上に来られた神の子であり、神御自身であられたことを認めることができたのです。だから彼らはイエスを喜んで礼拝することができたのです。
今まで彼らは神をどこか自分たちから遠いところにおられる存在として考えていたのかも知れません。しかし、彼らは今や、自分たちと共に歩み、自分たちを愛して続けてくださった主イエスが神であることを知って、その神に対する印象は大きく変化したと言えます。このように私たちを愛し、私たちをと共に生きてくださる神の本当の姿を私たちは今や天に昇られたイエスを通してはっきりと確信することができるのです。
本来、弟子たちにとってイエスとの別れは悲しむべきものであったと言えるはずです。しかし、聖書にはイエスとの別れを悲しむ弟子たちの姿は少しも記されていません。むしろ彼らは喜びに満たされているのです。それはイエスの昇天を通して、彼らが、イエスが天から来られた神の子であることを確信することができたからです。そしてそのイエスを通して神がどのように自分たちを愛してくださっているかを改めて確認することができたからです。このような意味で、主の昇天は私たちにとって大きな喜びを与えてくれる出来事であると言ってよいのです。
4.イエスは天国の何をされているのか?
私は教会で洗礼を受けたばかりの頃、教会学校の教師になりました。その時、教会学校の子どもから「天国って、死なないといけないところなのでしょう?」と質問されて、簡単に答えることができずにとても困ったことがありました。皆さんなら、この質問に何と答えられるでしょうか。確かに神がおられるところは「天国」、あるいは別の言い方で言えば「神の国」と呼ばれる場所です。そのような意味で「天国」は私たちの住む地上の世界とは全く違うところを指し示しています。しかし、だからと言って私たちは今、神と全く違う世界に住んでいるのではありません。それは今日、学んだ主イエスの昇天の出来事を通しても分かります。
イエスは今でも私たちに天から聖霊を送ってくださって、私たちと共に生きてくださるお方です。もし、イエスが私たちの心の目を開いてくださらなければ、私たちは聖書の言葉を正しく理解することも、ましてや主イエスを信じることもできません。また、2000年に渡るキリスト教会の歴史は、主イエスの活動の歴史であると言うこともできるはずです。なぜなら主イエスは同じように天から聖霊を送って、教会の宣教活動を行い続けて下さっているからです。このような意味で、私たちはこの地上に今住みながら、主イエスと共に生きることで天国の住人とされていると言うことになります。
もちろん、その私たちもやがてこの地上を離れて、天におられるイエスの元に行くときがやって来るはずです。しかし、私たちはそのときのことを今、心配する必要はありません。なぜなら、天国には既にイエスによって私たちのための予約籍が準備されているとイエスご自身が聖書の中で約束してくださっているからです(ヨハネ14章2~3節)。
このように主イエスの昇天の出来事は私たちがこの地上にあっても天国の住民として神と共に生きることができるようにしてくださるためのものであり、また、私たちがやがて地上の生涯を離れて主イエスのおられる場所に行くことができるためにも大切なことだと言えるのです。だからこそ主イエスの昇天の出来事はこの光景を直接に体験した弟子たちと同じように、私たちにとっても大きな喜びを与える出来事であると言うことができるのです。
福音書を読むとたくさんの群衆たちがイエスの行かれる場所を捜しまわり、そしてその居場所を見つけ出してはそこに着いて行く光景が記録されています。彼らはそうしなければ、イエスの御業にあずかることができなかったからです。このように今から2000年前にこの地上で活動されたイエスの行動の範囲は極めて限られた地域に限定されていました。
しかし、主イエスの昇天の出来事を経て、その活動の範囲は全く変化しました。今や、私たちはイエスの御業を体験するためにガリラヤ湖に行く必要も、エルサレムに行く必要もありません。天におられるイエスはそこから聖霊を送ってくださり、私たちがどこにいても、その御業を体験することができるようにしてくださるからです。そのような意味で主イエスの昇天の出来事こそが世界のすべての人が主イエスの救いの御業あずかることを可能とした出来事であると言えるのです。
聖書を読んで考えて見ましょう
1.イエスは弟子たちが聖書を悟らせるために何をされましたか(45節)。あなたにもイエスがこのときの弟子たちと同じように、聖書を悟らせ、神様を信じることができるようしてくださった体験があれば、思い出してみましょう。
2.46節と47節のイエスの言葉から旧約聖書(当時の弟子たちが読んでいたもの)の中心的なメッセージは何であることがわかりますか。
3.イエスは私たちにも「これらのことの証人となる」と言われています。それでは私たちは人々に何を証言するためにイエスから遣わされていると言えますか(48節)。4.弟子たちがイエスの命令通りに証人としての使命を果たすためには何を待つ必要がありましたか(49節)。
5.ルカはイエスの昇天の出来事をどのように伝えていますか(50~51節、参照:使徒1章9節)。
6.この時に主イエスの昇天の出来事を目撃した弟子たちはどのようになりましたか。(52節)また、あなたにとって主イエスの昇天の出来事はどのような喜びを与えるものと言えますか。