1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2025
  4. 8月24日「狭い門をくぐりなさい」

2025.8.24「狭い門をくぐりなさい」

ルカによる福音書13章22~30節(新P.135)

22 イエスは町や村を巡って教えながら、エルサレムへ向かって進んでおられた。

23 すると、「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」と言う人がいた。イエスは一同に言われた。

24 「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ。

25 家の主人が立ち上がって、戸を閉めてしまってからでは、あなたがたが外に立って戸をたたき、『御主人様、開けてください』と言っても、『お前たちがどこの者か知らない』という答えが返ってくるだけである。

26 そのとき、あなたがたは、『御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです』と言いだすだろう。

27 しかし主人は、『お前たちがどこの者か知らない。不義を行う者ども、皆わたしから立ち去れ』と言うだろう。

28 あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする。

29 そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。30 そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」


1.救われる人は少ないのか

①一人の人の問い

 「狭い門」と言う言葉から皆さんはどのようなことを連想されますか。比較的に多いのは、自分が希望する学校に入学できるかどうかを決める試験、もしくは希望する会社に入るために受ける試験を連想させると言うものです。私ももう50年以上前のことになりますが、高校の入試の倍率を伝える地元の新聞のページを眺めていた頃のことを思い出します。自分が志望する学校の受験生が予想よりも多いと、「これは難しいぞ…」と不安になります。そして、それに反して倍率の低い別の学校を見つけると「あっ、こっちの学校を受けておけばよかったかな…」と考えたことを思い出すのです。

 今日の聖書の物語は前回に引き続いて、イエス・キリストと弟子たちがエルサレムの都を目指す旅の過程で起こった出来事が紹介されています。当時、すでに多くの人々の評判になっていたイエスの元に、様々な人が訪ねて来ては、自分の抱えている疑問に対する答えを求めていたようです。今日の箇所でも一人の人がイエスの元にやって来て「主よ、救われる者は少ないのでしょうか」(23節)と尋ねたことが記されてきます。

 「救われる者は少ないのでしょうか」。どうしてこの人はこんな質問をイエスに尋ねたのでしょうか。「救われる人が多ければ、その中に自分も入れる可能性がある…、しかし、その数が少なければ、自分は難しいかも知れない…」そう考えたのでしょうか。あるいは「もし少ないとしたら、もっとがんばってその少ない人の数の中の入れるようにしたい…」。そう思ったのでしょうか。いずれにもしても、自分の救いを巡って湧き上がってくる様々な思いがこの人の質問の背後にはあったと言うことが分かります。


②神の国とは

 今日のお話の中では「神の国」に入るためにはどうしたらよいのか…。あるいはその神の国に入れるのはどのような人なのかと言うお話がイエスの口から語られています。先ほどの「救われる者は少ないのでしょうか」と言う人の質問は、言い替えれば「神の国に入れる人は少ないのでしょうか」と言っているのと同じになります。

 この神の国について誤解され易いことは、神の国とはどこかの場所にある国を言っているのではないと言うことです。イエス自身もこの神の国について「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない。実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17章20~21節)と語られたことがあります。神の国は私たちがどこかに移動することによって入れるような特定の場所を意味するものではありません。実はこの「神の国」と言う言葉は直訳すると「神の御支配」と言う意味となります。つまり、神が支配されているところであれば、それはどこであっても「神の国」であると言うことができるのです。そのような意味で、この「神の国」と言う言葉は特定の場所ではなく、私たちと神との関係性を表していると言ってよいのです。

 ある人はこの「神の国」を「神の愛がすべてのすべてになるところ」と言う説明をしています。ですから、たとえその人が今、どのような場所に置かれていたとしても、がたとえ厳しい試練の中に生きていても、その人が神の愛によって生かされているとしたら、まさにその人はすでに「神の国」に入っていると言うことになります。その人はすでに神の国の住民とされていると言うことができるのです。

 それでは私たちが神の愛の中に生きることができるためにどうしたらよいのでしょうか。あるいはそのような祝福にあずかることの出来る人どのような人なのでしょうか。主イエスはこれらのことについて次のように教えています。


2.神の国に入る戸口は狭い

「狭い戸口から入るように努めなさい。言っておくが、入ろうとしても入れない人が多いのだ」(24節)。

 イエスは「狭い戸口から入るように努めなさい」と語られています。「神の国は何もしなくても、努力なしに簡単に入れるところではない」とイエスは語っているのです。「何もしなくても、そのままで神の愛の中で私たちは生きえることができる」とはイエスは語られていないのです。

 ここで使われている「努める」と言う言葉は陸上競技に参加する選手が、自分を鍛錬して、その競技に参加するために努力する、そのような姿を描写するときに使われる言葉だと言われています。ただ、この場合の鍛錬は人に抜きんでて自分だけが優勝を目指すための努力と言うよりは、その競技を最後までやり遂げる力を身につける努力のことを表す言葉だと考えることができます。

 むかし、アカデミー賞を受賞した「炎のランナー」と言う題名のついた映画を見たことがあります。この映画にはオリンピックでの優勝を目指す二人の青年が対照的な姿で登場します。その内の一人のランナーは敬虔なキリスト教信仰の持ち主で、たまたま、その競技が日曜日の行われることを知った彼はその競技への参加を辞退してしまいます。それを知ったイギリス国王は「国のために戦ってほしい」と言っても説得しますが、彼は「日曜日は神様にささげる日です」と言ってその願いを断ってしまうのです。この映画の中でこの青年が「自分が走るのは、神様から与えられた足を使って、走るのが楽しいからだ」と言うような言葉を言っていたことを私は今でも思い出します。まさにこの映画の主人公の青年は神様のために厳しい鍛錬を積み、神様のために走ることを望んだと言えます。


3.どうして狭いのか

 それではなぜイエスは神の国に入るための戸口は「狭い」と語ったのでしょうか。この言葉は「あなたたちはまだ努力が足りない」と私たちの信仰に発破をかけるために語られているものなのでしょうか。このことについては続いて語られているイエスの言葉を考えて見るとその事情が少し分かって来ます。

 ここには家の主人が突然に帰って来て、その家の戸口を締めてしまったので、外に放り出されたまま、家の中に入れないで困ってしまう人たちが登場しています。この人たちは家の主人がいつ帰って来てもよいように準備をしていなかったのでしょうか。あるいは、家の扉が閉められて、家の中に入ることができなくなってしまうと言う事態を予想していなかったのでしょうか。彼らが準備を忘れていたこと、先ほどの言葉で言えば「努力」を怠っていた原因は外に放り出された彼らの発言から分かって来ます。

「御一緒に食べたり飲んだりしましたし、また、わたしたちの広場でお教えを受けたのです」(26節)。

 彼らは自分たちとこの家の主人とは特別な関係にあると考えていました。だから、主人がいつ帰ってきても、「自分たちはその家の中に入れてもらえることができる」と考えていたようです。しかし、家の中から聞こえる主人の声は彼らの予想もしてなかった「あなたたちなど知らない」という答えだったのです。

 これは一体どういうことを語っているのでしょうか。たとえばテレビによく出演するタレントのことを私たちはよく知っています。しかし、そのタレントはテレビの向こうで自分を見ている視聴者一人一人のことは全く知りません。この話は神と私たちの関係はこのようなものだと言ってるのでしょうか。しかしこの後のイエスの言葉を聞くと、ここにはこのイエスのお話を直接に聞いていたユダヤ人たちが持っていた特殊な事情があることが分かります。

「あなたがたは、アブラハム、イサク、ヤコブやすべての預言者たちが神の国に入っているのに、自分は外に投げ出されることになり、そこで泣きわめいて歯ぎしりする」(28節)。

 ここには「アブラハム、イサク、ヤコブ」という旧約聖書に登場する有名な信仰者の名前が登場しています。彼らは生涯に渡って神を熱心に信じて生きた人々で、神様から「あなたとあなたの子孫たちを祝福する」と言う約束を受けた人々でもありました。このユダヤ人と呼ばれる人々は自分たちは「アブラハム、イサク、ヤコブ」の正統な子孫であると考えていました。だから、「アブラハム、イサク、ヤコブ」と言う先祖たちに与えらた神の約束によって、自分たちは神から祝福を受ける権利を持っていると彼らは考えていたのです。

 このことについて福音書の最初の頃に登場する洗礼者ヨハネは次のような警告を語ったことが有名です。

「悔い改めにふさわしい実を結べ。『我々の父はアブラハムだ』などという考えを起こすな。言っておくが、神はこんな石ころからでも、アブラハムの子たちを造り出すことがおできになる」(ルカ3章8節)。

 このヨハネの警告は「我々の父はアブラハムだ」と言って、自分たちが自動的に神の国に入ることができると考えていたユダヤ人たちに対して、「悔い改めにふさわしい実を結べ」と言って彼らに神の国に入るための準備をするようにと勧めたものです。今日の箇所のイエスの言葉はこの洗礼者ヨハネの警告と同じようなことを言っていることが分かります。つまり、この時点でもユダヤ人たちは「我々の父はアブラハム」と考えて、そのために「自分たちと神とは特別な関係にあるのだから、当然、神の国に入ることができる」と言う考えを変えていなかったのです。

 しかし、突然、主人が帰って来て、その家の戸口を締めてしまったときに、彼らは外に放り出されてしまいます。そのとき、彼らがいくら「自分たちはアブラハムの子孫です。あなたと特別な関係にある者たちです」と叫んでみても、家の主人である神は「あなたたちのことは知らない」と言う答えが返ってくるのです。そしてその理由は、イエスの「狭い戸口から入るように努めなさい」と言う言葉を彼らが無視して、その戸口から入るための準備を怠ってしまったからだと言うことができるのです。


4.後のものが先になる

 それでは誰が神の国の戸口の中に入ることができるのでしょうか。この「狭い戸口」を通るためには私たちはどうしたらよいのでしょうか。イエスは今日のお話の最後で不思議な言葉を語っています。

「そして人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く。そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある。」(29~30節)

 ここには神の国の祝宴の席に着く人が「東西南北」つまり、世界中のあらゆる国から集められると言うことが語られています。つまり、神の国とはユダヤ人たちが考えていたように、アブラハムの血を受け継ぐ特別な人々だけではなく、世界中のあらゆる人が入ることができるところであることが教えられているのです。そしてこの国に入る人には次のような特徴があると言うのです。

「後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」。

 この言葉は「自分は神の国に真っ先に入れる」と考えている人が後になり、「自分は神の国に入る資格を持っていない。」と考える人が真っ先にこの神の国に入ることができると言うことを語っています。この言葉から私たちはイエスが別のところで語られた言葉を思い出す必要があります。

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである」(ルカ5章31~32節)。

 イエスはユダヤ人たちから「決して彼らは神の国に入ることはできない」と思われていたような「罪人」と呼ばれる人たちのところを訪れては、彼らに神の国の福音を語りました。それは「自分は神の国に入ることができない」と考えているような彼らに、その神の国に入る資格を与えるためでした。つまり、私たちが神の国に入るためには、このイエスの助けが必要であると言うことをこの言葉は教えています。

「わたしは門である。わたしを通って入る者は救われる」(ヨハネ10章9節)。

 このイエスの言葉から考えるとき「狭い戸口から入るように努めなさい」と言う言葉はこのイエスを信じて救いに入れられることを表す言葉だと考えることができます。人が狭い戸口に入るためには何が必要なのでしょうか。狭い所に入るためには自分が小さくなる必要があります。それは「自分には神の国に入る資格はない。誰かに助けてもらわなければいけない」と言う心の姿勢を表すのかもしれません。そしてそのように助けを求める人たちに対して、イエスは助けを与えてくださるのです。私たちを助ける資格を持つ方は、私たちのため十字架にかかり、復活された主イエス・キリストお一人しかおられません。そのような意味で「狭い戸口」とは、私たちにとってのただ一つの救いの門であるイエスを示しているとも考えることができます。

 私たちには神の国に入る資格が無くても、イエスが私たちを助けて神の国に、そして神の愛の中に招き入れてくださることを私たちは今日覚えたいと思います。そうすれば私たちは神から与えらた人生を心から喜んで生きることができるようになります。またやがては私たちの人生のゴールであもある神の国の祝宴に与かる者に私たちもイエスによってされるのです。

あなたも聖書を読んで考えてみましょう

1.このときイエスの元にやって来た人はそこでどのような質問をしましたか。この人はどうしてこのような質問をしたのだとあなたは思いますか(23節)。

2.イエスは神の国に入るための戸口はどのようなものだと教えてくださいましたか(24節)。

3.家の主人がその家の戸口を閉ざしてしまったとき、外に放り出されてしまった人は戸を叩きながら主人に何と言いましたか。その家の主人はその言葉に何と答えましたか(25~27節)。

4.28節のイエスの言葉を読むとき、家の外に外に投げ出された人はどのような人のことを言っていることが分かりますか。

5.また「人々は、東から西から、また南から北から来て、神の国で宴会の席に着く」(29節)。あるいは「そこでは、後の人で先になる者があり、先の人で後になる者もある」(30節)と言うイエスの言葉を読むとき、私たちは「神の国」に入ることのできる人がどのような人であることが分かりますか。

2025.8.24「狭い門をくぐりなさい」