2025.9.28「ラザロの神、私たちの神」YouTube
ルカによる福音書16章19~31節(新P.141)
19 「ある金持ちがいた。いつも紫の衣や柔らかい麻布を着て、毎日ぜいたくに遊び暮らしていた。
20 この金持ちの門前に、ラザロというできものだらけの貧しい人が横たわり、
21 その食卓から落ちる物で腹を満たしたいものだと思っていた。犬もやって来ては、そのできものをなめた。
22 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって宴席にいるアブラハムのすぐそばに連れて行かれた。金持ちも死んで葬られた。
23 そして、金持ちは陰府でさいなまれながら目を上げると、宴席でアブラハムとそのすぐそばにいるラザロとが、はるかかなたに見えた。24 そこで、大声で言った。『父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます。』
25 しかし、アブラハムは言った。『子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。
26 そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない。』
27 金持ちは言った。『父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。
28 わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください。』
29 しかし、アブラハムは言った。『お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい。』
30 金持ちは言った。『いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう。』
31 アブラハムは言った。『もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう。』」
1.みごとな逆転劇
今日の聖書が記す物語では生前たくさんの財産を持ち、たいへん優雅な暮らしをしていた金持ちと、貧しさと病に苦しむラザロと言う名前の付いた人物が登場しています。この対照的な二人の人物がその死後に立場が全く逆転してしまうと言うお話です。実はこのお話はイエスが活動された時代から広く人々の間で知れ渡っていた民間伝承の物語が土台となっていると聖書の研究家たちは述べています。そのお話にもやはり二人の人物が登場しています。一方の人物は金持ちの徴税人で、もう一方の人物は大変に貧しい生活をしていた律法学者です。この二人がほとんど同時期にこの世を去りました。一方の徴税人の葬儀にはたくさんの人が集まり、盛大な式が行われました。しかし、もう一方の律法学者はほとんど誰にも知られないままに、ひっそりとこの世を去ります。ところが、二人の立場はその死後に全く逆転してしまうのです。貧しい律法学者は天国の豊かな泉のほとりで安らいでいます。しかし、もう一方の徴税人は陰府の世界で飢えとのどの渇きに苦しみますが、彼を助けるものは何もありません。おそらく、イエスは当時の人々が良く知っていたこのお話を利用して今日のお話を語ったと考えられているのです。
ですから、そのような事情を考えると、このお話は死後の世界について詳しく説明するお話ではないと言うことができます。ましてや、死後に天国に入るために何をしたらよいのかを読者たちに教えるお話でもないのです。なぜなら、このお話を読んでも貧しかったラザロがどうして天の宴席でアブラハムと共にいることになったのか、その説明は一切なされていないからです。ラザロが生前に信仰深かったからと言った理由は全くここには記されていないのです。
それではこのお話は私たちに何を教えているのでしょうか。それはここに登場する金持ちが神から自分に与えられた大切なメッセージを無視したまま、その一生を終えてしまったことに対する警告であると言えます。実はこのお話の直前に「金に執着するファリサイ派の人々」(14節)と呼ばれている人たちが登場します。彼らはイエスからお話を聞いても、その話に真剣に耳を傾けることをせず、むしろイエスに対して批判的な態度をとっています。今日のお話はこの「金に執着するファリサイ派の人々」の生き方に警告を与えるためにイエスが語ったお話と考えることができます。今日のお話に登場する金持ちは、まさに「金に執着するファリサイ派の人々」の生き方を表しているとイエスは示そうとされたのです。
2.金に執着するファリサイ派の人々
このファリサイ派の人々は聖書に記されている神の律法を日常の生活の中で厳格に守ることを主張したグループでした。自分が救われるためには神の律法を自分の力で守る必要があると彼らは人々に教えたのです。そのファリサイ派の人々がなぜ「金に執着したのか」はよく分からりません。ただ、興味深いことは彼らがこの世で豊かな生活を送ることができることは神からの祝福であり、その豊かさこそが自分が神に愛されている証拠と考えていた点です。そして、逆にこの世で貧しさや病で苦しむ人は神から見放された人だと考える傾向があったのです。もちろん、私たちがこの世で平和で豊かな生活ができることは神からの祝福であると考えることは誤りではありません。しかし、だからと言って貧しい人や病で苦しんでいる人が神の祝福から外されていると考えることは正しいことではないと言えるのです。
このルカによる福音書が別のところで伝えるイエスの言葉がそのことを証明しています。イエスは次のように私たちに教えてくださっているのです。
「貧しい人々は、幸いである、/神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、/あなたがたは満たされる。今泣いている人々は、幸いである、/あなたがたは笑うようになる」(6章20~21節)。
ある意味で今日の物語に登場するラザロはこのイエスの言葉を証明する人物であると考えることができます。また、イエスは貧しい人や苦しんでいる人が神から見捨てられていないことを証明するために、この地上での生涯を歩まれた方であると言えます。このような意味でこの世での豊かさは自分の救いを証明するものでは決してありません。また、その反対にこの世での貧しさや不幸な生活は、その人が神の救いからもれていることを教えるものではないのです。
3.金持ちの生き方の問題
①渡ることのできない深い淵
それではこの物語に登場する金持ちはどのような点で過ちを犯し、その過ちの清算をその死後に受けることになったと言うのでしょうか。まず、陰府に落とされ、そこで苦しむことになる金持ちは、天の宴席でアブラハムとラザロが共にいる姿をはるかに仰ぎ見て、次のような願いをアブラハムに語ります。
「父アブラハムよ、わたしを憐れんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、わたしの舌を冷やさせてください。わたしはこの炎の中でもだえ苦しんでいます」(24節)。
この金持ちは生前に自分の家の門前で物乞いをしていたラザロに一切の関心を払わず、また何の好意も彼に施すことはありませんでした。それは金持ちが貧しいラザロに気づいていなかったせいではありません。その証拠に彼は天の宴席でアブラハムと共に席に座る人物が一目でラザロだと気づいています。しかも金持ちはそのラザロに対して敬意を示すことも、関心を示すこともなく、陰府で苦しむ自分を助けるための道具として彼を用いようとしています。しかし、アブラハムはこの金持ちの願いが不可能であることを次のように教えています。
「子よ、思い出してみるがよい。お前は生きている間に良いものをもらっていたが、ラザロは反対に悪いものをもらっていた。今は、ここで彼は慰められ、お前はもだえ苦しむのだ。そればかりか、わたしたちとお前たちの間には大きな淵があって、ここからお前たちの方へ渡ろうとしてもできないし、そこからわたしたちの方に越えて来ることもできない」(25~26節)。
死後になってこの金持ちが陰府で苦しむことになったのは、彼の生前の生き方に対する報いであり、その原因は彼自身が作り出してものだと言うことがアブラハムの口から明らかにされています。そしてアブラハムは自分たちと金持ちの間には「大きな淵」があり、誰もこの「淵」を渡ることができないとも語っています。金持ちがまだこの世にいたとき、貧しいラザロは彼の家の門前にいました。しかし、金持ちはそのラザロに一切の関心を示さず、あたかも見て見ぬふりをしていたのです。ですから彼とアブラハムたちとの間に「深い淵」を作り出したのは彼自身の仕業であったと聖書はここで教えているのです。
②モーセと預言者
さて、ここで自分の生前の生き方の報いを受けて死後、自分が苦しむことになったと言うことに気づいた金持ちは、もはや自分は手遅れかも知れないが、まだ地上に残されている自分の家族たちにはわずかな可能性が残されていると考えます。そしてアブラハムに新たな願いを語ったのです。
「父よ、ではお願いです。わたしの父親の家にラザロを遣わしてください。わたしには兄弟が五人います。あの者たちまで、こんな苦しい場所に来ることのないように、よく言い聞かせてください」(27~28節)。
今度も金持ちはラザロを自分のために利用しようとしています。おそらく金持ちもその兄弟たちも生前のラザロには何の関心も示さなかったことで同じであったかも知れません。しかし、もし死んだはずのラザロが生き返ったら、自分の兄弟たちも驚いて、そのラザロの言葉に耳を傾けてくれるはずだと彼は考えたのです。そうすれば兄弟たちは自分と同じ運命をたどることはなくなります。しかしアブラハムはこの金持ちの願いにも次のような否定的な言葉で返しています。
「お前の兄弟たちにはモーセと預言者がいる。彼らに耳を傾けるがよい」(29節)。
この「モーセと預言者」とはユダヤ人が神の言葉である聖書を指して呼ぶ表現です。つまり、アブラハムは神の言葉である聖書を読んでいれば、誰もこのような失敗を犯すことはないとここで語っているのです。しかし、問題はその聖書の言葉にどのように従うかと言うことです。金持ちはその点で大きな失敗を犯してしまいました。また地上に残された彼の兄弟たちも聖書の言葉に対して彼と同じ態度を示しています。このままではだめです…。だから金持ちは繰り返して次のようにアブラハムに願います。
「いいえ、父アブラハムよ、もし、死んだ者の中からだれかが兄弟のところに行ってやれば、悔い改めるでしょう」(30節)。
しかし、この言葉にもアブラハムは冷たい返答を語ります。
「もし、モーセと預言者に耳を傾けないのなら、たとえ死者の中から生き返る者があっても、その言うことを聞き入れはしないだろう」(31節)。
この言葉はイエスの復活を知っても多くのユダヤ人たちが頑なな心を改めず、キリストによって示された福音に耳を閉ざしてしまったことをそのまま表していると言えます。私たちを真の信仰に導くは人を驚かせるような奇跡ではありません。私たちを導くのは神の言葉である聖書です。そしてその聖書の言葉に耳を傾ける者こそが復活されたイエスと出会い、その方と共に生きることができるようにされるのです。
4.神の語り掛けに耳を傾ける
①現実を通して語り掛けてくださる神
ところである説教家はこのイエスのお話を解説しながら次のように教えています。このお話は私たちに神が語り掛けてくださる二つの方法を示していると言うのです。一つは「モーセと預言者」、つまり聖書の言葉そのものです。私たちは神の言葉である聖書を通して、自分がこの地上でどのように生きるべきか、またその自分の人生にとって何が大切であるのかを学ぶことができます。しかし、この聖書の言葉だけに耳を傾けることだけでは私たちはまだ不十分であると言えるのです。よく「原理主義」と言う信仰のスタイルが問題にされることがあります。神の言葉が絶対であることには間違いありせん。しかし、原理主義者は目の前の現実を無視して、ただ聖書の言葉だけを守れればよいと主張する傾向があり、そこで新たな問題を生み出しいるのです。そこで私たちが神の語り掛けを知るためにもう一つ大切になって来るのは私たちの目の前の現実であると言えるのです。実はその現実は偶然に起こることではなく、私たちに対する神の呼びかけであると言えるのです。この物語で言えば、金持ちの家の門前にいたラザロこそが、この金持ちにとっての神からの大切なメッセージであったと言えるのです。
私たちの信仰生活においてもまず神の言葉である聖書に耳を傾けることが大切であると言えます。しかし、さらに重要なのは私たちの日々の生活で遭遇する様々な出来事に対して、私たちがどのように対処していくのかと言うことです。この現実を通して語り掛けてくださる神の呼びかけに私たちが答えようとするとき、私たちがそれまで耳を傾けて来た神の言葉はまさに生ける言葉となって、私たちの人生を導くものとなるのです。私たちの信仰は現実逃避のためのものではなく、現実を生き抜く力を与えるものであると言えるのです。残念なことに金持ちはそのような神の呼びかけに耳を傾けることなく、自分の思うままに生きることで神に対しても、また自分の周りの隣人に対しても決して渡ることができない「大きな淵」を作り出してしまったと言えるのです。
②ラザロを決して忘れない神
最後にもう一度、この物語のもう一人の主人公ラザロに目を向けることでこのお話を終わりたいと思います。このラザロと言う名前はヘブライ語で「エルアザル」と言って、その意味は「神が助けてくださった」と言うものです。この名前で福音書に登場する人物はもう一人、病気で死んでしまったのにイエスによって生き返らせていただいたラザロと言いう人物が存在しています(ヨハネ11章)。今日の物語に登場するラザロは貧しく、飢えに苦しみ、その上、全身にできものができると言う病で苦しんでいました。しかし、このラザロに手を差し伸べる人物はこの世に誰もいませんでした。わずかに彼のできものの傷をなめにやって来る犬だけが彼の友達であったようです。しかし聖書では犬は汚れた存在として忌み嫌われる動物として扱われています。ですからラザロの存在はこの犬以下だと人々から考えられていたことを表しているのかも知れません。すべての人からその存在さえ無視され、忘れられているラザロの姿がここには示されているのです。しかし、この物語はそのラザロを決して忘れることなく、また愛し続ける方がいたことを私たちに教えているのです。なぜなら神は決してこのラザロを忘れてはいなかったからです。むしろラザロの人生は終始神のまなざしの中で守られていたことをこの物語は語っているのです。
私たちの主イエス・キリストは私たちもこのラザロと同じように、神のまなざしの中で生かされ、また神の愛の対象であることを私たちの教えてくださっています。そしてイエスはその神の愛に基づいて私たちのために十字架にかかり、私たちを救い出してくださいました。だからこそ、私たちはたとえ厳しい現実の中にあっても、このイエス・キリストを通して、神の愛を知り、またその人生を生きる力を与えられていることをこのラザロの物語からも学ぶことができるのです。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.この物語に登場する二人の人物はそれぞれどのような人達でしたか。またその二人の立場は死後にどのように変わりましたか(19~23節)。
2.金持ちはアブラハムに語って願いは何でしたか。またアブラハムはその願いにどのような返事を語っていますか(24~31節)。
3.このアブラハムと金持ちとの会話から、金持ちが生前に犯した失敗が何であることが分かりますか。
4.この物語はイエスによって「金に執着するファリサイ派の人々」(14節)に向けて語られたと考えられています。それではイエスはこの物語を通して彼らの生き方についてどのような警告を語っていると考えることができますか。