2026.1.11「キリストの血と体」YouTube
マタイによる福音書2章1~12節(新P.2)
16 わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか。
17 パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです。
ハイデルベルク信仰問答書
問78 それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか。
答 いいえ。洗礼の水は、キリストの血に変わるのでも罪の洗い清めそのものになるのでもなく、ただその神聖なしるしまた保証にすぎません。そのように、晩餐の聖なるパンもまたキリストの体そのものになるわけではなく、ただ礼典の性格と方法に従ってキリストの体と呼ばれているのです。
問79 それではなぜ、キリストは、パンを御自分の体、杯を御自分の血またその血による新しい契約とお呼びになり、聖パウロは、イエス・キリストの体と血にあずかる、と言うのですか。
答 キリストは何の理由もなくそう語っておられるのではありません。すなわち、ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のために、わたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。そればかりか、わたしたちが、これらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に現実に、聖霊のお働きによって、そのまことの体と血とにあずかっているということ。そして、あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということを、この方は目に見えるしるしと保証を通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです。
1.恵みの宗教であるキリスト教
①信仰は神の恵み
キリスト教は「恵みの宗教」と呼ばれることがあります。この「恵み」とは、神が人間に一切の交換条件を求めることなく、無償で救いを与えてくださると言うことを表しています。たとえば私たちが社会で通用する何らかの資格を得たいと願うならば、そのために熱心に勉強して、試験に合格する必要があります。しかし、神の救いにあずかるためにはこのような試験を受ける必要は決してありません。神の救いはそれを受けたいと願う人には誰でも無償で提供されるのです。
そうお話しすると、皆さんの中には「それでは信仰はどうなるのか?」と疑問に思われる方もおられるかも知れません。キリスト教の伝道者たちが「信じる者は救われる」と言っているように、神の救いに私たちがあずかるためには必ず信仰が必要ではないかと考えるのです。確かに聖書は私たちに「イエス・キリストを信じるように」と教えています。しかし、実はこの「信仰」自身も私たちのものではなくて、神の恵みによって私たちに神が与えてくださるものだと聖書は教えているのです。
②解決された私の悩み
私がキリスト教会に行き始めて、聖書を学んでいたときに一番に私が理解に苦しんだのはこの「恵み」と言う言葉の意味でした。もし、信仰が神からの恵みであるとしたら、その信仰が本当に神から与えられたものか、それとも人間が勝手に作り出した思い込みなのか、それをどこで見分けることができるのかについて当時の私は深刻な悩みを抱くようになったのです。私がこのような疑問を抱いたのは、私が抱えている問題に原因があったと言えます。なぜならば、私のそれまでの生き方は「何をやっても長く続かない」、「三日坊主」と言うような言葉で表されるようなものだったからです。「自分は、今は神様を信じているように思っていても、それは自分の勝手な思い込みで、明日は無くなってしまうかも知れない」。そんな不安が私の心を悩ませたのです。
そんな私が自分の悩みから解放されるきっかけとなったのは、当時、私が教会で熱心に教えられていた宗教改革者マルチン・ルターの書いた小教理問答書についての学びからでした。私はその学びの中で「生まれつきの人間は神を信じようとは思わない…」と言うルターの言葉を見つけたのです。この言葉は神が働きかけてくださらなければ、本来の人間は神を信じようとはしないことを教えています。つまり、自分が今、真剣になって信仰について悩んでいること自体、すでに自分に神が働いてくださっているからだと言うことを私は知ったのです。
「自分の信仰は本物なのか…」、「自分は本当に救われているのか…」、キリストを信じようとする者であれば必ずと言っていいほど、このような疑問を抱いたり、悩みを持つことがあります。なぜなら、神の御業も、私たちの信仰も私たちの目で確かめることも、手で触って確認することもできない霊的なものだからです。私たちは今、信仰問答を通して、キリストが私たちのために定めてくださった聖礼典の一つである聖餐式の意味について学んでいます。この学びの中で私たちはキリストが私たちの目で見て、手で触れる聖餐式のパンやぶどう酒を通して、目に見えない神の救いを確かめることができるようにされたことを学んだのです。つまり、キリストは私たちが信仰について、また救いについての私たちが疑いから解放され、確かな信仰生活を歩むことができるようにとこの聖餐式を私たちのために与えてくださったと言うことができます。
2.偶像崇拝にならないために
①キリストの体と血に変わる?
私たちが今日学ぶハイデルベルク信仰問答の問78は「それでは、パンとブドウ酒がキリストの体と血そのものになるのですか」と言う質問から始まっています。この問いは信仰問答が作られた時代のカトリック教会の教えに深く関わりを持っています。なぜなら、当時のカトリック教会の教えでは神父が祭壇の前でお祈りをささげると、聖餐式で使われているパンとぶどう酒がキリストの体と血に変わると教えていたからです。そしてキリストの体と血に変わったパンとぶどう酒を礼拝すると言うことが行われていたのです。
私は神学生のときに神戸の六甲にあるカトリック教会の礼拝に何度か出席したことがありました。カトリック教会では私たちの教会と違って、中央に十字架につかられたイエスの聖像が飾られた祭壇が置かれています。不思議だったのはその聖像の足元あたりに何かを入れる場所があって、その場所には赤いランプが灯されていることでした。後で分かったのですが、この部屋は神父の祈りによってキリストの体に変わったパンを入れておく場所で、赤いランプは「ここにキリストがおられる」と言うことを表すサインだったのです。
宗教改革者たちはこのようなカトリック教会の教えを偶像崇拝だと厳しく批判しました。それはモーセに導かれたイスラエルの民が昔、「自分たちのために目に見えない神を表す像を作ってほしい」と願ったときに、モーセの兄のアロンが金の子牛を作ってそれを拝ませたのと同じだと宗教改革者たちは考えたのです。
確かにキリストはパンとぶどう酒を「私の体、私の血」と言われています。しかしキリストは私たちにそれを礼拝するようにとは教えていません。そこで信仰問答はキリストがこう教えたのは私たち人間に対する「神聖なしるし、また保証」のためだとここで説明しているのです。
この「しるし」とはパンとぶどう酒というものにご自分の体と血をたとえることで、キリストがどのような方であるかを教えると言う役目を示します。また「保証」とは今まで学んで来たように私たちの信仰の確かさ、またその救いの確実さを私たち保証する役割を教えているのです。
②食べなければ生きられない
まず、私たちがここで考える必要があるのは、なぜ、キリストが御自身の体と血を、パンとぶどう酒という食べ物、あるいは飲み物と言う「しるし」を使って教えてくださったのかと言うことです。私たちは年齢を重ねると物忘れが多くなるという問題を抱えます。何かをしにここにやって来たのに、肝心なその何かを忘れてしまうということがよく起こるのです。しかし、不思議なものでそんな人間でも「食べること」は決して忘れることはありません。認知症になってよく「食べたこと」は忘れてしまうことはあります。しかし、決して「食べること」は忘れることはないのです。だから、今食事をしたばかりなのに認知症になった人が「まだ食べていない」と言って、家族や周りの人を困らせることがあるのです。しかし、人間はすべてのものを忘れても「食べること」は忘れないのです。なぜ、人間は食べることを忘れることがないのでしょうか。それは食べることが私たちの命と直結した行為だからです。つまり人間は食べなければ生きていけないのです。
キリストが御自分の体と血をパンとぶどう酒という食べ物、飲み物で表された意味はここにあります。私たちの命にはキリストが必要なのです。食べ物が私たちのこの世の命を支えるように、キリストは私たちの霊的な命を支え、私たちに永遠の命を与えてくださる方だからです。だから、私たちがこのキリストを忘れ、またそのキリストから離れてしまえば、当然に私たちの命も消滅してしまうのです。これがイエス・キリストがご自分の体と血をパンとぶどう酒という「しるし」を通して表してくださった理由なのです。
3.聖霊によって救いの保証を受ける
①信仰のリアリティー
以前にもお話したと思いますが。今から500年ほど前に起こった宗教改革でカトリック教会から離れたプロテスタント教会は一つの教会ではありません。そのプロテスタント教会の中には考え方や聖書の理解の仕方の違いによっていくつかの教派が存在するようになりました。そのプロテスタント教会の代表的な教派の一つが宗教改革者マルチン・ルターの名前を引き継ぐルーテル教会です。つまり、ルーテル教会と言う名前は「ルターの教会」と言う意味を持っているのです。さらに宗教改革で生まれたの別の教派は、当時のスイスのジュネーブで活動したカルヴァンという牧師の考え方を支持するグループです。このカルヴァンの教会はおもに自分たちを「改革派教会」と言う名前で呼ぶようになりました。そして私たちが今、学んでいるハイデルベルク信仰問答はこのカルヴァン派、つまり改革派教会の信仰の立場を教えるために作られたものなのです。
ですから、次のハイデルベルク信仰問答の問79の答えもこのカルヴァン派の考え方を強く表す内容となっています。このカルヴァン派の特徴は神が私たちのために送ってくださる聖なる霊、聖霊の働きを強調する点にあると言われています。そしてキリストが定めて下さった聖餐式のパンとぶどう酒が私たちの信仰にとって大切な働きをすることができるのは、そこに聖霊なる神が働かれるからだと信仰問答は教えているのです。
まず問79の答えは「すなわち、ちょうどパンとブドウ酒がわたしたちのこの世の命を支えるように、十字架につけられたその体と流された血とが、永遠の命のために、わたしたちの魂のまことの食べ物また飲み物になるということを、この方はわたしたちに教えようとしておられるのです。」と言っています。これは今、お話した「しるし」の意味を語っている部分です。そしてそれに続いて信仰問答は次のように教えるのです。
「そればかりか、わたしたちが、これらの聖なるしるしをこの方の記念として肉の口をもって受けるのと同様に現実に、聖霊のお働きによって、そのまことの体と血とにあずかっているということ。そして、あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということを、この方は目に見えるしるしと保証を通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです」。
この答の言葉の中に「現実に」と言う言葉が登場しています。この「現実」と言う言葉は私たちがよく日常で使う言葉で言えば「リアリティー」と言う外来語で表現されるものです。このリアリティーが無くなってしまえば、それは絵空事、つまり「フィクション」と言うことになってしまうのです。
聖書がどんなに私たちによいことを教えていてもそのすべてが「フィクション」であるとしたら、聖書は私たちに単なる気休めを語っていることになってしまいます。私たちは皆、聖書の言葉に騙されていると言うことになるのです。しかし、聖書は私たちにフィクションではなくリアリティーを持った出来事を教えているのです。
②聖霊が与えてくださるリアリティー
確かに今から2000年前にユダヤの地でイエス・キリストが十字架にかかり、その体を裂き、血を流されたという出来事は歴史的な事実です。つまり、それはリアリティーを持った出来事であると言えるかも知れません。しかし、その2000年前の出来事が今を生きる私たちの生活にどのように関係してくるのでしょうか。信仰問答はそのリアリティーを私たちに与えてくださるのが聖霊の働きだと教えているのです。
「そして、あたかもわたしたちが自分自身ですべてを苦しみまた十分成し遂げたかのように、この方のあらゆる苦難と従順とが確かにわたしたち自身のものとされているということを、この方は目に見えるしるしと保証を通して、わたしたちに確信させようとしておられるのです」。
今から二千年前に実現したキリストによるリアリティーをあたかも今を生きる私の人生に起こったリアリティーとしてくださるのがこの聖霊の働きであると信仰問答は教えているのです。
聖餐式のパンとぶどう酒を通してキリストの体と血にあずかる者は、この聖霊の働きによって確かに自分の罪を赦され、永遠の命の希望に生きる者とされるのです。そしてそれだけでなく、その信仰の確かさ、救いの確実さを聖霊の働きによって保証されて人生を送ることができるのです。
私たちも誰かと大切な約束をするとき、口約束だけではなく、ちゃんとした契約書を作り、その契約書にサインや印鑑を押すことをします。聖餐式のパンとぶどう酒は神と私たちとの間に交わされた約束を証明する契約書の役割を持っていると言えるのです。そしてその契約書は紙の文書ではなく、私たちの心に信仰として与えられるのです。さらにそこに聖霊が働いてくださり、契約書にサインや印鑑を押すように、私たちの心に確かな保証を与えてくださるのです。だから教会はキリストの約束に基づいて私たちの信仰生活にリアリティーを与える聖餐式を今日まで守り続けていると言えるのです。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.ハイデルベルク信仰問答の問78はパンとブドウ酒について何を否定し、また何を肯定して教えていますか。
2.「しるし」とはどのような役割を持っていますか。
3.それでは聖餐式に信仰を持ってあずかるものに与えられる「保証」とは何ですか。
4.聖餐式のパンとぶどう酒とイエスの十字架との関係をこの信仰問答はどのように説明していますか。
5.いままで聖餐式があなたの信仰生活を支えた経験はありますか。
6.この信仰問答は私たちが抱く聖餐式に対する誤解をどのように取り除いていますか。