2026.1.25「互いを励まし、共に成長する教会」YouTube
テサロニケの信徒への手紙一5章11節
「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上 に心がけなさい。」(新共同訳)
「ですから、あなたがたは、今そうしているように、互いに励まし合い、互いを造り 上げるようにしなさい。」(聖書協会共同訳)
1.不完全な人間が集められる教会
①スーパーマンは孤独
今日の礼拝では今年度の会員総会のために小会で新しく選んだ年 間標語と年間聖句について皆さんと学びたいと思っています。今年の教会の年間標語は「互いを励まし、共に成長する教会」です。また年間聖句はテサロニケの信徒への手紙一5章11節の「ですから、あなたがたは、現にそうしているように、励まし合い、お互いの向上に心がけなさい」です。ただ、年間聖句として教会に掲示する文章は新共 同訳の後に出版された聖書協会共同訳の言葉の方を使いたいと考えました。その理由は聖書協会共同訳の翻訳の方が、教会の標語の意味をよりよく表しているように思えるからです。
私は長い間、改革派教会のメディアミニストリーが製作しているラジオ番組の「あさのことば」のメッセンジャーとして奉仕して来ました。その番組の中で私は以前、「スーパーマンは孤独?」と言う題名のお話をしたことがあります。皆さんはスーパーマンをご存知でしょうか、アメリカ生まれのヒーローで、日本でもテレビドラマや映画で よく知られています。このスーパーマンは素晴らしい力を使って、困っている人たちを助けることが仕事であると言えます。しかし、考えて見るとそういう意味ではスーパーマンの出番は、誰か困っている人がいないと無くなってしまいます。つまり、スーパーマンには必ずその力の助けを必要としている困っている人が必要なのです。私はこのラジオメッセージの中で、誰もがスーパーマンのような完璧な人間になりたいと思っています。もし、その願望が実現してすべての人がスーパーマンのようになってしまったどうだろうか…と私はお話しました。すべての人がスーパーマンになれば、誰もスーパーマンの助けを必要とする人はいなのです。そうなるとお互いを励まし 合ったり、助け合うという人間関係が失われてしまうはずです。これではとても寂しい社会が生まれてしまい、そこでは大切な人間関係も失われてしまうはずなのです。
②自分や他人に完璧を求める私たち
私がなぜこのようなお話をここでするかと言えば、私たちは普段、知らず知らずに自分に完璧さを求め、また他人に対しても完璧さを求める傾向があると言えるからです。そのために私たちは信仰生活の中で自分自身の欠点を責め、また、教会では他人の欠点を攻撃すると言うことになってしまいます。しかし私たちの神は私たちがこの地上の信仰生活で非の打ちどころのない、完璧な人間になることを求めておられるのでしょうか。答えは「No」であると言えます。私たちはお互い不完全な人間であるからこそ、他人の励ましや助け、また愛を必要としているのです。
ファーサイスと言う神学者は「完璧な人間にはキリストの救いは必要ない」と言っています。だから、私たちが集まる教会はお互いの励ましと助けを必要としている不完全人間の集まりでしかありません。またそのような教会だからこそ私たちはキリストの助けを必要としているのです。そしてそのような教会にキリストの愛が豊かに表れると言えるのです。
2.励ましを必要としている私たち
今年の年間標語と聖句には「互いに励まし合う」ことが勧められています。ですからこの言葉の前提として、私たちは互いに励ましを必 要としている、不完全で弱い人間であることをまず認める必要があると言えます。ところで年間聖句の中で「互いに励まし合う」と言う言葉に使われている「励ます」と言う言葉のギリシャ語は「パラカレイテ」と言う単語になっています。このギリシャ語原語の本来の意味は「そばに呼び寄せる」とか、「共に立つ」となるそうです。ここに聖書が言っている「励ます」という言葉の本来の意味がよく示されていると言えます。
私たちは励ましを必要としている人に何か気の利いた言葉を語ることができないかと悩むことがあります。そのために本やインターネットで調べたりするのですが、どうもピンと来る言葉が見つかりません。それもそのはずです。聖書が言う「励ます」と言う言葉の意味はそのような言葉をかけることだけを教えているのではありません。むしろ、言葉をかける以上に、その人の傍らに共に立つことが励ましにとっては大切だと言っているのです。もちろん「共に立つ」とはただ物理的にその人と横に立つと言うだけではなく、励ましを必要としている人の心を理解すること、そのためにその人の言葉に耳を傾けることが大切であると言えるのです。
私はイソップ童話の「北風と太陽」と言うお話が好きです。あるとき、北風と太陽が道を急ぐ旅人が羽織っている厚いコートをどちらが早く脱がせることができるかを巡って勝負することになりました。北風は旅人に向けって冷たい強風を送り続けます。そのようにして旅人のコートを一気に吹き飛ばそうとしたのです。しかし、旅人は冷たい風の中でコートを飛ばされたら凍え死んでしまうと必死になってそのコートを守ろうとします。そして結局、北風は何もできないで終わってしまいます。北風と違い太陽は旅人に向かって暖かい日差しを降り注がせます。すると旅人は暑さのあまり、自分から着ていたコートを脱ぎ棄てます。そしてこの勝負は太陽の勝利で終わるのです。
自分自身や他人に向けられる冷たい批判の言葉や、攻撃の言葉はこの北風のようなものであると言えます。結局はそこでは何も変わることはできません。しかし、お互いに相手の言葉に耳を傾け、お互いの存在を受け入れ合うならば、私たちの教会は必ず変わっていくはずです。この方法は単なる人間関係をよくする人の知恵と言うだけではありません。なぜなら、私たちの神御自身が私たちのような罪人を滅ぼすことをしないで、イエス・キリストの救いの御業を通して私たち一人一人をそのままで受け入れてくださったからです。だからこそ、神は私たちの教会にもお互いを励まし合うことを求めておられるのです。
3.互いに造り上げる
ときどき、「教会の複雑な人間関係など自分の信仰生活の向上にはマイナスでしかない…」と言って、教会を批判する人がいます。「誰にも教えてもらわなくても、聖書があれば信仰生活は送れる」、あるいは「有名な牧師の説教を読んで、一人で礼拝をささげることもできる」と言う人もいるかも知れません。現代は便利な時代で教会に行かなくても、どこかの礼拝中継をインターネットで見て日曜日を過ごすこともできるようになりました。しかし、このような考え方が間違いであることは教会をイエス・キリスト自身が建ててくさったことを思い出すなら分かるはずです(マタイ16章18節)。教会は私たちの信仰生活を助けるために神が与えてくださったものです。また、私たちはキリストの体である教会に所属することで、それぞれがキリストの御業に仕える者とされるのです(コリント一12章12~27節)。
ところで私たちがもし教会に属さないで一人で信仰生活を送るとしたらどうなってしまうでしょうか。おそらく、私たちの信仰生活は独りよがりのものとなり、自らの信仰の成長の機会を失ってしまうはずです。私たちが自分の姿を鏡に映して見るように、自分の本当の姿を知るためには私たちの姿を客観的に示してくれる何かの助けが必 要です。宗教改革者のカルヴァンは「真実の自己認識は真実の神認識に基づく」と言っています。真実の神認識は正しい聖書の言葉の理解から生まれるはずです。しかし、一人だけで聖書を自分勝手に読む人は真実の神認識を得ることはできません。そうなるとその人は本当の自己認識もできません。これでは壊れた鏡で自分の姿を見ているようなものとなります。
そのような意味で私たちが教会に集まって共に神の言葉に耳を傾け続けることは大切であると言えるのです。これは一人の牧師から聖書の言葉を聞くということだけではなく、教会に集う信徒同士が互いに聖書の言葉を分かち合うことも大切であると言えるのです。そのような意味で、教会に集う私たちは礼拝で語られる御言葉に耳を傾けるとともに、教会の兄弟姉妹と共に聖書を学び、またその理解を分かち合うことは大切であると言えるのです。私たちがお互いに誠実に神の言葉である聖書の言葉に聞き従うとき、「互いを造りあげる」という教会の標語は実現して行くのです。
4.神に信頼する教会生活
これまで私たちが教会生活の中で「互いに励まし合うこと」、「互いに造り上げる」ことの大切さを学んで来ました。ただ、この教会の年間聖句で最も大切な言葉は「あなたがたは、現にそうしているように」(新共同訳)、とか「あなたがたは、今そうしているように」(聖書協会共同訳)と言う言葉に表されています。それは私たちが今のお互いの現実の姿を受け入れて、認め合うことが大切であることを言っているからです。
この年間聖句に選んだ言葉が収められているテサロニケの信徒への手紙を読むと、テサロニケの教会の人々が伝道者パウロを励まし続け、また彼らもまたパウロの言葉によって励まされて信仰生活を送っていたことが分かります。そしてパウロはこの教会の人々のすばらしさを語っています。しかし、だからと言ってこの教会が完成した完璧な教会であったと言うわけでありません。
このテサロニケの信徒への手紙は新約聖書の中でも最も早い時期に書かれた文書だと考えられています。当時の教会にはキリストの再臨についての誤解や誤った教えが流れ、大きな混乱が生まれていました。そのような混乱の中で信仰の危機に陥る人もいたのです。だからこそ、パウロはこの手紙の中で「互いに励まし合い、互いを造り上げるようにしなさい」と教えているのです。このパウロはテサロニケの人々以外にもさまざまな場所に存在した教会に手紙を書き送り、それがこの新約聖書の一部として収録されています。これらの手紙からも分かるように、パウロが指導していた教会にも様々な問題があったのです。この地上には問題のない教会は一つも存在しないのです。だからその意味で教会は不完全な者たちの集まりであると言えるのです。
また、パウロのような大伝道者でもこれらの問題を簡単に解決することできなかったことが分かります。同じように問題を簡単に解決できるような牧師や教会役員も存在しないのです。そのような意味で牧師も教会員もその立場の区別なく「互いに励まし合い、互いを造り上げる」ことが必要であると言えるのです。
ただ、その上でパウロの信仰の視点で大切なのは、たとえこの地上の教会には様々な問題があったとしても、その教会を導く神の御業は確かなものであって、信頼できると言うことです。私たちは互いに人だけを見ているならば不安であり、また不確かな信仰生活を送ることになります。しかし、私たちの上にはすでに確かな神の御業が働いて くださっているのです。
昨年一年間の教会の歩みの中で、私たちは様々な試練を経験することになりました。そしてその試練は今も終わっていないまま続いているかも知れません。また今の私たちが抱えている問題を簡単に解決できるような魔法は存在していないのです。しかし、私たちは神が私たちに無意味な試練を与えられないことを知っています。神は必ずこの試練を用いて、私たちに希望を与えてくださるはずです(ローマ5章3~5節)。私たちはこの神の御業を信頼して、今年も共に教会生活を送って行きたいと願うのです。
昔聞いた戦国時代の武将の故事には「一本の矢なら簡単折れるが、 三本の矢は簡単には折れない」と言うものがありました。神は私たちが厳しい試練を通り抜け、祝福された信仰生活を歩むために、教会の兄弟姉妹を既に私たちに与えてくださっています。ですから私たちはその神の御業を信頼し、「互いを励まし、共に成長する教会」を目指して歩んで行きたいと思うのです。
…………… 祈祷 ……………
主なる神よ、 あなたが私たち一人ひとりを御言葉によって励ましてくださっていることに感謝します。どうか、私たちを試練の中でもあなたの御業に信頼して、互いを思いやり、支え合う教会として歩ませてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.パウロが「互いに励まし合いなさい」と語った背景には、テサロニケの教会のどのような状況がありましたか。
2.テサロニケ一5章11節で用いられている「励ます」という言葉には、どのような意味が含まれていましたか。
3.「励まし」が相手に単なる気の利いた言葉をかけることではないのはなぜでしょうか。
4.私たちの教会において牧師や役員、そして教会員が「互いに」に励ましを必要としていることは、私たちの教会を理解するためになぜ大切ですか。
5.「互いを励ますこと」と「共に成長すること」は、どのようにつながっていると思いますか。
6.教会で私たちが互いの欠点や不完全さを批判し合えば、教会はどうなるでしょうか。また、そこから私たちの信仰の成長は実現すると思いますか。
7.パウロが「あなたがたは、今そうしているように」と述べた言葉は、どのような意味を持っていましたか。