2026.2.1「幸いな人」YouTube
マタイによる福音書5章1~12a節(新P.6)
1 イエスはこの群衆を見て、山に登られた。腰を下ろされると、弟子たちが近くに寄って来た。
2 そこで、イエスは口を開き、教えられた。
3 「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
4 悲しむ人々は、幸いである、/その人たちは慰められる。
5 柔和な人々は、幸いである、/その人たちは地を受け継ぐ。
6 義に飢え渇く人々は、幸いである、/その人たちは満たされる。
7 憐れみ深い人々は、幸いである、/その人たちは憐れみを受ける。
8 心の清い人々は、幸いである、/その人たちは神を見る。
9 平和を実現する人々は、幸いである、/その人たちは神の子と呼ばれる。
10 義のために迫害される人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである。
11 わたしのためにののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき、あなたがたは幸いである。
12 喜びなさい。大いに喜びなさい。天には大きな報いがある。あなたがたより前の預言者たちも、同じように迫害されたのである。」
1.不幸になる罪人の人生
以前、共産主義の生みの親と言われているカール・マルクスの本で読んだような記憶のあるお話です。ある炭鉱労働者の家庭で、凍てつく寒い夜に母親と息子が何やら問答を交わしています。子供が母に尋ねます。「どうしてうちでは、ストーブに使う石炭を買えないの…」。すると母は答えます。「お父さんの稼ぎがわるいからよ…」。子供は尋ねます「どうしてそうなの…」。母は続けて「お父さんが働いている会社が不景気だからよ…」と答えると子供は「どうしてお父さんの働いている会社は不景気になったの…」と問います。その子供の答えに母はすぐにこう答えます。「石炭が取れすぎて。価格が暴落し、会社が儲からなくなったからよ…」。マルクスは労働者が働けば働くほど、かえって貧しくなっていく社会の仕組みを指摘しました。そしてそれを改善しようとして共産主義という理論を生み出したのです。残念ながらこのマルクスの理想は現実のものとならなかったことを私たちはこの後の世界の歴史を通して知らされています。
聖書は「幸せになりたい」と頑張って生きようとする人間が返って不幸になっていくという問題を指摘しています。そして、その原因は神に造られた人間がその神から離れてしまったからだと教えているのです。イエスが語った有名な「放蕩息子」のたとえでは、弟息子が「もっと自由に、そして幸せになりたい」と考えて父親の元から旅立ちます。しかし、その弟息子は結局、旅先で何もかも失い、不幸のどん底に陥ってしまいます。イエスはこのお話で神から離れてしまった人間の悲惨な現実を教えようとしたのです(ルカ15章11~32節)。
今日の聖書の箇所ではそのイエスが「幸せ」について語っています。今日はこのイエスの言葉から皆さんと本当の幸せとは何かについて少し考えて見たいと思うのです。
2.あなたたちは幸いです
「心の貧しい人々は、幸いである、/天の国はその人たちのものである」(3節)。この言葉から始まるイエスの教えは「八つの幸い」と言う名前で人々に知られています。ここでまず、私たちが誤解してはならないことは、イエスはここで「幸せになる方法」を私たちに教えているのではないと言うことです。それはこのイエスの言葉を原文であるギリシャ語の語順に並び替えてみるとよく分かります。
「幸いです。心の貧しい人、なぜなら、あなたがたのものだからです。天の国は」。この文章ではイエスの言葉はまず「幸せですよ」と言う誰かに対する呼びかけの言葉で始まっています。つまり、実際にこの話をイエスの前で聞いている人たちが「幸せですよ」と言われていると言うことになります。
今日の箇所の少し前に、このときに国中からイエスの元に「いろいろな病気や苦しみに悩む者、悪霊に取りつかれた者、てんかんの者、中風の者など」と言うような、様々な不幸を抱える人々が集まって来ていたことが紹介されています。そしてイエスはこれらの人々を癒されたと聖書は報告しているのです(4章23~25節)。ここから読み取ると、ここで「幸せですよ」と言われている人々は、不幸のどん底からイエスに出会い、そのイエスによって癒された人たちであったと言うことが分かります。確かに彼らは長い間、苦しんで来た病や悩みからイエスによって癒された訳ですから「幸せな人達」と言ってもいいかも知れません。しかし、イエスがここでいう幸せはそのようなものではありません。なぜなら、今回はイエスによって深刻な病から癒された者たちも、再び病気に罹らないと言う保証はありません。また、苦しみから解放された人も、また新たな苦しみを味わうことになるかも知れないのです。しかし、それでもイエスは「あなたたちは幸せですよ」とここで語っています。それはイエスの語る「幸せ」は、たとえ私たちの人生にこれから何が起ころうとしても決してなくならない、私たちの人生から奪われることのない「幸せ」だからです。その幸せがイエスに出会い、そのイエスから癒しを受けた者たち、つまりイエスによって救われた者たちには既に与えられていると言うことを今日のイエスのお話は私たちに教えていると言えるのです。
3.イエスの教える「幸せ」
①心の貧しい人
「心の貧しい人は、幸いである」(3節)とイエスは教えています。ところでこの「心の貧しさ」とはいったい何のことを言っているのでしょうか。日本語ではあまり日常会話では使われないかも知れませんが、「あの人は心が貧しい」と言えば、それはその人を褒めているというよりは、貶しているような言葉として聞こえるはずです。この言葉を聖書の原文に従って読めば「霊の貧しさ」と読むことがふさわしいと言われています。聖書において「霊」とは人間を人間たらしめる部分だと言うことができます。神によって「神の姿」に似せて造られた人間だけが持つものがこの「霊」だと言えるのです。
この「霊の貧しさ」とは私たち人間存在の一番大切な部分にぽっかりと穴が開いている、空っぽになっている言うことを表しています。なぜならその部分を埋めるべき存在を人間は見失ってしまっているからです。だからその人は悲しんでもいるのです(4節)。
そしてイエスはこの私たちの霊の空洞を埋めてくださるために来られた方です。私たちはこのイエスによって、神が造ってくださった人間の本来の状態に戻されるのです。放蕩息子が父親の元に帰ることができたように、私たちがイエスに出会い、イエスを信じて生きるとき、私たちは既に「天の国」、つまり神と共に生きる新しい人生を始めることができたのです。
②柔和な人
「柔和な人々は、幸いである」(5節)とイエスは語っています。私たちは自分の人生が自分の立てた計画通りに進まないことを嘆き、「自分は何て不幸なのか…」と考えることがあります。このような見方を自分の人生で身につけている人はその日の天気にまで文句を言い、その天気が自分を不幸にしていると考えるのです。「今日は、健康のために外で運動をしようと考えていたに、朝から雨で台無しだ…」と嘆きます。
柔和な人とは私たちの人生を神が導いてくださっているということを信じている人のことを言っています。たとえ、自分の人生が自分の立てた計画通りに進まなかったとしても、神が最善の計画を持って自分の人生を導いてくださっていることを信じている人です。そのような人の人生には「柔和さ」、つまり生き方に柔軟性が与えられているのです。お天気になれば出かけようと思っていたのに、予想に反して雨が降った場合、そのような人はすぐに自分の計画を変更することができます。「今日は計画を変えて、家でゆっくり今まで読めなかった本を読もう」。そう考えることができます。私たちの人生は晴れの日ばかりではありません。突然予想もしていないかった出来事が起こることがたびたびあります。「柔和な人」はそれでも神に信頼して、自分の人生を生きることができる人を言うのです。
➂イエスの救いにあずかる者の人生
「義に飢え渇く人々は、幸いである」(6節)とイエスは教えています。聖書が教える「義」とは単なる「正義」と言ったようなものではありません。聖書の教える「義」は簡単に言えば「神の御心」と言ってよいかもしれません。聖書は神が私たち罪人を愛して、その私たちを救うためにイエス・キリストを遣わしてくださったと教えています。聖書はこれが私たちに示された「神の御心」だと言っています。ですからその御心が実現することを一番に望むことが、私たちの人生にとっても最も大切なことなのです。イエスもこの後すぐに「自分の人生にこれから何が起こるかということを先取りして悩むことを止めて」、私たちに「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはみな加えて与えられる」(6章33節)と教えています。
イエスはこの後も、「憐れみ深い人々」(7節)、「心の清い人々」(8節)、「平和を実現する人々」(9節)、「義のために迫害される人々」(10節)について「幸いである」と言っています。実はここに列挙されていることは神の義、つまり神が私たちに求められている御心を表すものだと言うことができます。今まで私たちは自分が幸せになるために必死に努力して生きて来ました。しかし、その努力が思い通りの結果をもたらすことなく、返って不幸になってしまうことになった原因をイエスはここで教えているのです。だから大切なことは私たちが神の御心を追い求め、その御心が自分の人生を通して実現されることを願うことなのです。私たちの幸せは、私たちの人生の上に神の御心が実現するときに与えられるものだからです。
4.イエスが共にいてくださる人生
このように私たちが私たちの思いではなく、神の御心を求めて、またその御心が実現するために生きることは、言葉では簡単ですが、実際には簡単なことではありません。いえ、私たち罪人は今までそれができなかったからこそ、悲惨な人生を送ることとなってしまっていたのです。しかし、イエスはそんな私たちに「あなたたちは幸せですよ」と言ってくださっています。それはなぜでしょうか。イエスが私たちと共に生きてくださるからです。イエスが私たちの心にぽっかりと空いた穴を埋めて、私たちが神の御心に従って生きることができるようにしてくださる方なのです。だからイエスは私たちにも向かっても「あなたたちは幸せですよ」と言ってくださるのです。
もちろん、私たちが自分の人生を幸せにするために必死に努力することは無意味なことではありません。なぜなら、イエスがその私たちの努力を正しい方向に導き、豊かな人生の実を与えてくださる方でもあるからです。健康を心がけること、働いて財産を作って家庭を支えることは私たちの人生にとってもとても大切なことであると言えます。しかし、勘違いしてはならないのは、それらのものは私たちの幸せの本当の根拠とはなりえないと言うことです。なぜなら、健康も財産も家族も私たちの人生からいつか奪われる可能性があるからです。イエスがここで私たちに教える幸せは私たちの人生に何が起こっても奪われることのないものです。私たちの幸せの根拠は私たちと共にいてくださるイエスにあるからです。聖書はこのイエスについて私たちに次のように証言しているからです。
「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ1章8節)。
「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章38~39節)。
…………… 祈祷 ……………
主なる神さま、あなたは「心の貧しい者たち」を「幸いです」と宣言してくださいました。私たちがいただいた恵みに生かされ、あなたも御心を第一に求めて、憐れみと平和をもって歩むことができるようにしてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.イエスはここで「幸い」という言葉は何回繰り返し語られていますか(1~12節)。
2.イエスの語る「八つの幸い」は、どのような人々に向けられて語られていますか。
3.「心の貧しい」とは人間のどのような状態のことを言っていると思いますか(3節)。
4.なぜイエスのために迫害される人が「幸い」なのでしょうか。
5.今日、私たちの生きている社会で「幸い」と呼ばれる生き方はどのようなものでしょうか。あなたはその「幸い」を多くの人が手に入れていると思いますか。
6.「柔和な人」とはどのような人のことを言っていると思いますか。そのような人の生き方にはどのような特徴がありますか。
7.「義に飢え渇く」とはどのような意味を表していると思いますか。そのような人は自分の人生でまず何を求めて生きようとしますか。
8.私たちの教会はどのように「平和を実現する」共同体になれるでしょうか。