2026.2.15「律法を完成されるイエス」YouTube
マタイによる福音書5章17~37節(新P.7)
17 「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである。
18 はっきり言っておく。すべてのことが実現し、天地が消えうせるまで、律法の文字から一点一画も消え去ることはない。
19 だから、これらの最も小さな掟を一つでも破り、そうするようにと人に教える者は、天の国で最も小さい者と呼ばれる。しかし、それを守り、そうするように教える者は、天の国で大いなる者と呼ばれる。
20 言っておくが、あなたがたの義が律法学者やファリサイ派の人々の義にまさっていなければ、あなたがたは決して天の国に入ることができない。」
21 「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。
22 しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける。兄弟に『ばか』と言う者は、最高法院に引き渡され、『愚か者』と言う者は、火の地獄に投げ込まれる。
23 だから、あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら、
24 その供え物を祭壇の前に置き、まず行って兄弟と仲直りをし、それから帰って来て、供え物を献げなさい。
25 あなたを訴える人と一緒に道を行く場合、途中で早く和解しなさい。さもないと、その人はあなたを裁判官に引き渡し、裁判官は下役に引き渡し、あなたは牢に投げ込まれるにちがいない。
26 はっきり言っておく。最後の一クァドランスを返すまで、決してそこから出ることはできない。」
27 「あなたがたも聞いているとおり、『姦淫するな』と命じられている。
28 しかし、わたしは言っておく。みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである。
29 もし、右の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に投げ込まれない方がましである。
30 もし、右の手があなたをつまずかせるなら、切り取って捨ててしまいなさい。体の一部がなくなっても、全身が地獄に落ちない方がましである。」
31 「『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と命じられている。
32 しかし、わたしは言っておく。不法な結婚でもないのに妻を離縁する者はだれでも、その女に姦通の罪を犯させることになる。離縁された女を妻にする者も、姦通の罪を犯すことになる。」
33 「また、あなたがたも聞いているとおり、昔の人は、『偽りの誓いを立てるな。主に対して誓ったことは、必ず果たせ』と命じられている。
34 しかし、わたしは言っておく。一切誓いを立ててはならない。天にかけて誓ってはならない。そこは神の玉座である。
35 地にかけて誓ってはならない。そこは神の足台である。エルサレムにかけて誓ってはならない。そこは大王の都である。
36 また、あなたの頭にかけて誓ってはならない。髪の毛一本すら、あなたは白くも黒くもできないからである。
37 あなたがたは、『然り、然り』『否、否』と言いなさい。それ以上のことは、悪い者から出るのである。」
1.宗教と掟
①豚肉は食べられない
私は昔、アルバイトでアフガニスタン人やパキスタン人と言った国々の人々と一緒に仕事をしたことがあります。最近は私たちの住む川口でも外国人に関する問題がクローズアップされて、大きな騒ぎとなっています。しかし、実際にそのような人と知り合って見ると確かに背景となる彼らの文化や習慣は私たちのものとかなり違うので戸惑うこともありますが、それでも彼らがそれぞれ個性を持った私たちと同じ当たり前の人間であることが分かりました。その上で彼らの大半はイスラム教と言う信仰を持っている点で、私にとっては物珍しいことがたくさんありました。彼らが毎日一定の時間になると水で手足を清めてイスラム教の神殿のあるメッカの方角に向けてお祈りする姿は私の心を引き付けるものがありました。ただ、面倒だなと思ったのは彼らが日常で守っている掟、つまり聖書で言えば「律法」の問題です。
特に彼らと一緒に食事をすると、日本の食事にはイスラム教徒が食べてはならないものがあるらしく大変苦労していることが分かりました。特に彼らが絶対に口にしてはならないのは、私たちがよく食べている豚肉です。これは旧約聖書のレビ記11章で「いのししはひづめが分かれ、完全に割れているが、全く反すうしないから、汚れたものである。これらの動物の肉を食べてはならない。死骸に触れてはならない。これらは汚れたものである」(7~8節)と言う決まりが記されているからです。これは同じ旧約聖書の掟を信じているユダヤ人たちも同じで、彼らも豚肉を食べることはありません。ところが不思議なことに彼らと同じように旧約聖書を信じている私たちキリスト教徒の場合には「豚肉を食べてはいけない」と言う掟は守られていないのです。
②廃止された「儀式律法」
キリスト教徒は旧約聖書の中で「儀式律法」、つまり神を礼拝するために定めれた律法はキリストがこの地上に遣わされたことで廃止されたと考えています。なぜなら、これらの掟は皆、十字架で御自身の命をいけにえとしてささげて下さったイエス・キリストを指し示すものであると考えるからです。そのためキリストが実際にこの地上に来られ、その救いの業を成し遂げてくださったことで、その儀式律法の役割はすべて終わったとキリスト教では考えられているのです。
今日の聖書の箇所でイエスは「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(17節)と語られています。この「儀式律法」の観点で考えれば、この律法は単に「廃止された」と言うよりは、キリストの御業を通して完全に実現された、完成したと言えます。だからもはやその掟の役目は終わったと考えることができるのです。。ただ、旧約聖書の教える掟は儀式律法だけではなく、皆さんも知っておられるモーセの十戒、つまり人間がどう生きるべきかを教えた「道徳律法」が残されています。そして私たちキリスト教会でもこの十戒を今でも大切にして、教え続けています。今日はイエスの言葉からこの旧約聖書の掟である律法と、その完成者として来られたイエスとの関係、そしてこのイエスを通して明らかにされた律法の意味について皆さんと少し考えてみたいと思います。
2.イエスの権威
①律法と預言者
ここでイエスは「律法と預言者」と言う言葉を使っていますが、元々ユダヤ人の中では旧約聖書全体を「律法と預言者」と言い言葉で表す習慣がありました。この「律法」とはエジプトでの奴隷状態から神によって救い出されたイスラエルの民に指導者モーセを通して神が与えられた掟です。また「預言者」の働きは民がこの神の掟である律法に厳格に守って生きることを教えることにありました。ですからイエスがこれらのものを「廃止するためではなく、完成するためである」と自分の働きについて述べたことは、イエスが旧約聖書の約束をすべて実現するために来られた方だと言うことを説明しているとも考えることができるのです。
ただ、この後でイエスが語っているのは、「殺してはならない」という十戒の中で第6戒の教えです。また次に「姦淫してはならない」、は十戒の第7戒の教えについて教えています。さたに「誓ってはならない」と言うお話の場合は人間の側の都合のために神と言う存在を持ち出して誓うと言うことが問題となっています。ですからこれは十戒の第3戒「主の名をみだりに唱えてはならない」に関して語っていると考えることができます。このようにイエスはこのお話の中で旧約聖書の十戒の教えについて語ろうとしていることが分かるのです。
②廃止するのではなく、完成するため
ここで大切なのはイエスが語る「廃止するためではなく、完成するため」と言う言葉の意味です。実は「廃止する」と言う言葉の原語の意味は「ばらばらにする」と言うものです。またその意味と対比して用いられている「完成する」と言う言葉は、むしろ一つに統合すると言う意味を持っていると考えた方がよいでしょう。この言葉から考えるとイエスの役目はバラバラにされた掟を、一つにまとめるためにやって来られたと考えることができるのです。 ときどき通販サイトでもキッドと言って完成された製品ではなく、自分で組み立てるための商品が売られています。実際に購入したときそれぞれのパーツは一体何なのかよくわからないことがあります。しかし、設計図に従ってその部品を組み立て、完成させてみると、「なるほどこの部品はこんな役目を持っていたのか」と気づくことがあるはずです。
イエスの活躍されていた時代、ユダヤ人たちは神の律法に従うことが厳しく求められていました。しかし、その律法はいつの間にかバラバラになってしまって本当は神がこの律法を通して何を求めておられるのかが良く分からなくなってしまっていました。ですから人々はいつの間にか「ただ、与えられた決まりだけを守ればよい」と考えるようになりました。このようにイエスのこの発言の背後には、当時、人々の間で神の掟の本当の意図が見失われ、むしろその掟が返って人を不自由にしたり、苦しめたりする問題があったのです。
3.イエスの教え
①殺してはならない 第6誡
たとえばイエスは「殺してはならない」と言う掟について、「兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」と言うような拡大解釈と言えるようなお話をされています。「殺してはいけない」と言うだけなら、これは殺人を禁じる掟であり、「人を殺さなければよい」と言うことになります。
ときどき耳にする殺人事件のニュースを聞いて私たちの大半は「怖いな」とは感じても、自分とほとんど無関係だと考えます。しかし、ここで語られるイエスの言葉に無関係、つまり該当しない人が私たちの内にいるでしょうか。しかもイエスは「あなたが祭壇に供え物を献げようとし、兄弟が自分に反感を持っているのをそこで思い出したなら…」とも語ります。こちらに例え悪意がなかったとしても、私たちの発言や行動が相手に誤解され反感を買ってしまうと言うことは私たちの人間関係の中でよく起こることです。イエスのここでの発言から考えるとこれらのこともすべて戒めの第6戒である「殺してはならない」に反するものだと教えていることになります。
②姦淫してはならない+結婚関係 第7誡
また十戒の第七戒の「姦淫してはならない」と言う教えに至っては「みだらな思いで他人の妻を見る者はだれでも、既に心の中でその女を犯したのである」とまでイエスは語っています。もともとこの戒めは人を男と女に創造され、彼らを一組の夫婦とされた神の御心を尊重し、結婚関係の純粋さを守るために定められたものとされています。ですから、この後で『妻を離縁する者は、離縁状を渡せ』と言う離婚の問題がでて来るのも、結婚関係と言う理由でつながっているからです。イエスはこの結婚関係について他の箇所で「だから、二人はもはや別々ではなく、一体である。従って、神が結び合わせてくださったものを、人は離してはならない」(マタイ19章6節)と教えてもいます。このような意味で、ここでもただ「姦淫しなければよい」、「離婚した人は離縁状をかけばよい」と考える人たちに対して、神が創造のときから私たち人間に与えてくださった結婚という人と人との関係を大切にし、また、その関係を創造された神の御心を重んじるようにとイエスが教えていることが分かるのです。
③誓ってはならない 第3誡
さらに「一切誓いを立ててはならない」と言う教えは、もともと人の間で「誓い」がどうして必要になって来るのかというところから考える必要があると思います。誓いを立てたり、その誓いを文書にして互いに交換したりすることの理由は、それをしなければその約束が不履行になっても相手に責任を取らせることができないからです。誓いを立てないと信じられない、そんな不完全な人間関係が現実だからこそ誓いは私たちにとって必要となって来るのです。ましてや天や地にかけて誓いを立てるということは、人間の都合のために神の御名をみだりに利用するものとなり絶対に許されないとイエスは教えています。つまり、イエスの教えの本当の狙いは誓いを立てる必要がないようなお互いが信頼し合える人間関係を作ることにあると言うことが分かるのです。
4.功利主義と神の愛
ところでイエスは別の箇所で旧約聖書の教える神の掟である十戒を見事に二つの掟として要約しておられます。
「イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(マタイ22章37~40節)。このイエスの言葉から考えると旧約聖書が教える神の掟、律法の目的は神に対する愛と人に対する愛を教えるものだと言うことが分かります。つまり、律法とはすべて「愛」を教えるものであり、私たち人間が愛のために生きることを教えていると言えるのです。
先日、ある人の説教を読んでいて、「現代人の価値観はすべて「功利主義」、つまり、それは自分のために役に立つがどうかで決められている」と語られていたことが心に響きました。私たちの住んでいる現代社会は役に立つと感がられる人を重んじ、反対に役に立たないと判断された人々を切り捨てる傾向があります。かつてナチスドイツは「障がい者は社会のために役に立たない」と言う理由で、彼らをガス室に送って殺害しました。これは極端な例かもしれませんが、人の命を大切にする神の掟と「功利主義」つまり「役に立つか立たないか」という考え方は相反するものだと言うことがわかります。
これはイエスが取り上げた離婚の問題でも同じだと言えます。なぜ夫が妻に対して「離縁状を書くのか」それは、結婚相手が自分の人生に役に立たない、むしろ障害となっていると判断するからです。イエスはこのような判断で人を見ることが危険であることを警告されているのです。
そして誰もが自分の利益のために生きようとすれば、当然人間と人間の間の信頼関係も崩壊して行くはずです。つまり、イエスはこのような功利主義が私たち人間を創造された神の御心とは反していることをここで指摘されているとも言えます。
人の価値を「その人が役に立つか立たなか」という功利主義で判断しようとするとき、私たちが一番理解できなくなるのは、私たち罪人のために救い主イエスを送ってくださり、その命と引き換えに私たちを救ってくださった神の御業です。「そんなことをして神にどんな利益があるのか…」。そう考えても、私たちは聖書の中にその答えを見出すことはできなくなります。「なぜ私のような役に立たない存在を、イエス・キリストの命に代えてまで神は大切にしてくださるのか」。その答えを私たちは決して理解できないのです。
しかし、聖書は教えています。「神の愛」(ヨハネ一4章8節)だからです。神は人を役に立つ、役に立たないという原理で取り扱っているのではありません。私たちを愛しているからこそ、その命を大切にしてくださるのです。そして神の掟である律法は神の愛を私たちに教えるものであり、私たちがその神の愛の中で互いの人間関係を築くことを教えるために与えられているのです。このように私たちはこの律法の完成者として来られたイエスを通して私たちに対する「神の愛」をその掟を通しても知ることができるようにされるのです。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.イエスはこの17–20節で律法について何を語っていますか。
2.「あなたがたはが聞いている通り。…しかし、わたしは言う」という形式の意図は何にあると思いますか。
3.なぜイエスは行為だけでなく、心の内面を問題にされるのでしょうか。
4.「律法学者やファリサイ派の人々の義」とは、どのような義だったと考えられることができますか。
5.今日の教会生活や信仰生活で、「外面的には正しいが、心が伴っていない」例はあるでしょうか。
6.「然りは然り、否は否」と生きることは、現代社会ではどのような難しさがあると思いますか。