2026.2.8「キリストのリアリティー」
ヘブライ人への手紙9章23~28節(新P.411)
23 このように、天にあるものの写しは、これらのものによって清められねばならないのですが、天にあるもの自体は、これらよりもまさったいけにえによって、清められねばなりません。
24 なぜならキリストは、まことのものの写しにすぎない、人間の手で造られた聖所にではなく、天そのものに入り、今やわたしたちのために神の御前に現れてくださったからです。
25 また、キリストがそうなさったのは、大祭司が年ごとに自分のものでない血を携えて聖所に入るように、度々御自身をお献げになるためではありません。
26 もしそうだとすれば、天地創造の時から度々苦しまねばならなかったはずです。ところが実際は、世の終わりにただ一度、御自身をいけにえとして献げて罪を取り去るために、現れてくださいました。
27 また、人間にはただ一度死ぬことと、その後に裁きを受けることが定まっているように、
28 キリストも、多くの人の罪を負うためにただ一度身を献げられた後、二度目には、罪を負うためではなく、御自分を待望している人たちに、救いをもたらすために現れてくださるのです。。
ハイデルベルク信仰問答書
問80 主の晩餐と教皇のミサとの違いは何ですか。
答 主の晩餐がわたしたちに証しすることは、イエス・キリスト御自身がただ一度十字架上で成就してくださったその唯一の犠牲によって、わたしたちが自分のすべての罪の完全な赦しをいただいているということ。〔また、わたしたちが聖霊によってキリストに接ぎ木されている、ということです。この方は、今そのまことの体と共に天の御父の右におられ、そこで礼拝されることを望んでおられます。〕
しかし、ミサが教えることは、今も日ごとに司祭たちによってキリストが彼らのために献げられなければ、生きている者も死んだ者もキリストの苦難による罪の赦しをいただいていない、ということ。〔また、キリストはパンとブドウ酒の形のもとに肉体的に臨在されるので、そこにおいて礼拝されなければならない、ということです。〕
このようにミサは、根本的には、イエス・キリストの唯一の犠牲と苦難を否定しており、〔呪われるべき〕偶像礼拝に〔ほかなりません。〕
1.混乱した信仰生活
①私たちよりも神様が近い人々
私がまだ神学生だった頃、インドネシアに宣教師として派遣されていた一人の牧師が語った宣教報告を聞いたことがあります。あるときその牧師は、インドネシアの離島にある貧しい村を訪ねました。するといきなりその村の一人の人から「子どもが病気で死にそうだから、先生、家に来て子どもの病気が治るように祈ってください」と懇願されたと言うのです。牧師は一瞬「神様に祈るよりも、病院に連れて行くのが先だろう…」と考えたと言います。しかし、この離島から医者のいる病院がある町に行くには何日もの道のりがかかることを知った牧師はその人の願いに答えて、「自分にできることなら」と病気の息子が寝かされている家に赴いたと言うのです。そしてその病床で熱心に神様の癒しを祈り求めました。すると、不思議なことにその牧師の祈りを境にその子どもの容態はどんどん回復していき、数日たつと全く元気になったと言うのです。「この出来事を体験して一番驚いたのは自分自身だった」とその牧師は語っていました。そして日本のようなところでは病気になればすぐに「医者に行こう」と考えるが、その村では「まず神様に助けを求めよう」と言うことになると説明しながら、「便利な生活ができる日本よりも、この村の人たちの方がもっと神様に近い世界に生きているのでないか」と自分は反省させられたと言うのです。この話には実は後日談があって、癒された子どもの両親はその牧師に「この子は死ぬはずだったのに、先生の祈りによって生き返りました。ですから、この子は先生に差し上げます。先生の子どもとして育ててください…」と言われてとてもとても困ってしまったと言うのです。
②宗教改革時代の混乱した信仰生活
私たちが世界史でも学ぶ宗教改革は今から500年ほど前に起こった出来事です。ですから当然の時代に生きていた人々の関心と現代に生きる私たちとの関心は大きく違っていたと言うことができます。現代人の多くはたとえば自分の健康に強い関心を持っているかも知れません。そして「健康で長生きをしたい」と言う多くの人の願いに答えるようにテレビのCMや新聞の広告では健康のために役立つと言われる様々な商品があふれています。
宗教改革が起こる頃の中世のヨーロッパで最も人々が関心を持ったものは死んだ者が行くとされる死後の世界であったと言えます。怖ろしい伝染病の流行や、頻繁に起こる戦争など当時の人々には自分の死の問題は現代の私たちよりももっと身近なものであったようです。ですから当時の人々はその死を超えて生きることができる永遠の命を得て、「祝福された天国に入りたい」と言う切実な願いを持ちながら生きていたのです。
そこで当時のヨーロッパで大流行したのは人々に「天国行きを保証する」と宣伝された様々な信心業でした。たとえばこの世に生きている間に功徳をたくさん積んで天国に行ったと考えられている「聖人」と言う人々を礼拝して、彼らの功徳を分けてもらおうとする「聖人崇拝」が大流行しました。また、そのような聖人が祭られている町まで遠い道のりを巡礼して行く旅が盛んになりました。その他、「神様が喜んでくださる」と言うことで自分の身を痛めつけて苦行をする人も現れました。また、宗教改革のきっかけとなった当時の教会が販売した「免罪符=贖宥符」はこのような民衆の心を利用して、教会の建物を建てる資金を集めるためのもので「これを買えば、天国に行ける」と宣伝されていました。
しかし、これらの信心業が問題なのはいずれも聖書に根拠が示されていない、人間が勝手に作り出したものだと言うことです。そしてむしろ聖書の教えに反するようなものであったとも言えるのです。だから当時の時代を生きた宗教改革者たちはこのような人々の不安な心に聖書の福音によってまことの平安を与える代わりに、むしろその不安を利用している当時のカトリック教会を厳しく批判し、教会が聖書の教えに戻るようにと訴え続けたのです。
2.信仰の確信を伝えない礼拝
ですから、この深刻な問題を生み出していたのは当時のカトリック教会であったと言えるのです。教会は本来、イエス・キリストの福音を人々に伝え、人々に確かな救いを提供する働きを神から委ねられている信仰者の共同体です。しかし、当時の教会は人々に「これで自分は安心して天国に行ける」と確信できるような救いの根拠を明確に示すことができなくなっていました。そしてこの最大の問題は当時のカトリック教会の行っていて礼拝にあったと考えることができるのです。
カトリック教会では今でもそうですが礼拝を「ミサ」と言う言葉で言い表しています。そしてこの「ミサ」は「聖体拝領(せいたいはいりょ)」と言って、イエス・キリストが最後の晩餐の中で定められたパンとぶどう酒に与かること、つまり私たちプロテスタント教会の言葉では聖餐式と呼ばれるものを意味する言葉です。ですからカトリック教会の礼拝の中心はこのミサにあって、聖書の解き明かしはそれに付随するものでしかありませんでした。だから多くの場合、聖書の解き明かしがなされないままミサだけが執り行われることもありました。
また、このミサの最大の問題は、そこで使われる言語が古代ローマで使われていたラテン語になっていて、ミサに出席する一般信徒には理解できず、そこで何が語られているか、また行われているかがよくわからないものになっていた点です。これは私たちが仏教の葬儀に出席して、よく意味の分からないお経の言葉を聞いているのと同じであると言えます。結果的にこのような礼拝に出席しても、当時の人々は聖書の語るキリストの福音の出来事を理解することができませんでした。当然、彼らは自分の救いについての確信も持てなくなっていたのです。その上で、教会は免罪符の販売のように、人々の不安を利用して、金銭を巻き上げるようなことをしていました。
宗教改革者たちはこの教会が聖書の言葉によってキリストの福音を明確に語り、それによって人々の不安を取り除き、まことの平安を提供する場所に変えようしました。それは教会がキリストから与えられた本来の働きに戻ることを意味していました。しかし、当時のカトリック教会は宗教改革者たちのこの声に耳を傾けるのではなく、返って彼らを「異端」と決めつけ、教会から排除しようとしたのです。
3.ローマ教皇のミサを批判する信仰問答
今日のハイデルベルク信仰問答の問80は「主の晩餐と教皇のミサとの違いは何ですか」と言う言葉で始まっています。この問答の解説書を読むとこの問80はカトリック教会が宗教改革者たちの教えを教会会議で正式に「異端」と決めつけ、その教えを批判した文章が公開されたことを受けて、それに正式に反論する形で作られた文章であると説明されていました。つまり、この問80は当時のカトリック教会との論争の中で後から新たに信仰問答に付け加えられた文書であったと言うのです。
宗教改革者たちが当時のカトリック教会の主張の中で最大の問題にしたのは「ミサ」、つまり聖餐式を行うたびにキリストの犠牲がそこで繰り返されると教えた点にありました。これは病気が完治しない人が何度も何度も治療を受けなければならないのと同じことだと言えます。しかし、聖餐式はキリストの一回きりの十字架上での犠牲の完全さを示すものであって、キリストがミサのたびに何度も犠牲をささげられる必要はないと宗教改革者たちは考えました。だから信仰問答はこう答えているのです。
「主の晩餐がわたしたちに証しすることは、イエス・キリスト御自身がただ一度十字架上で成就してくださったその唯一の犠牲によって、わたしたちが自分のすべての罪の完全な赦しをいただいているということ。」
はっきり言って、当時のカトリック教会がキリストのただ一度の十字架の犠牲の意味を否定するためにこのようなミサの説明をしたのかどうかはよくわかりません。この点に関してはカトリック教会の神父や神学者たちの説明にもっと丁寧に耳を傾ける必要があると言えます。ただ、今から500年以上前のヨーロッパではカトリック教会とプロテスタントの間で深刻な対立が生まれ、時にはその対立によって戦争まで起こったような時代であったことを私たちは考慮してこの信仰問答を読む必要があるかも知れません。
余計なことかもしれませんがカトリック教会がプロテスタント教会を「異端」としてではなく、同じ信仰を分かち合う兄弟として認めるようになったのは20世紀に入ってからです。今から50年前にローマのバチカンで開催された第二バチカン公会議ではじめてカトリック教会は私たちプロスタント教会の存在を認めています。さらにこの会議の中で長い間、強制されて来たラテン語でのミサを止め、それぞれの国の母国語を使うミサが許可されています。私たちが今使っている日本語聖書は「新共同訳」と名付けられています。これはカトリック教会とプロテスタント教会が共同で製作し、共同で使用している聖書であることを意味しています。今、私たちはカトリック教会と対立するのではなく、共に理解し合い、また祈り合う信仰の仲間として歩む時代に生きていると言えるのです。
4.キリストの犠牲はただ一度限り
このような意味で私たちはこの信仰問答の言葉からカトリック教会を批判するのではなく、当時の宗教改革者が私たちの信仰にとって何を一番大切に守ろうとしたのかを知る必要があると言えます。それでは彼らは何をこの信仰問答の中で教えているのでしょうか。それはキリストの十字架の犠牲がただ一回だけで十分であり、それは私たちすべての罪人を救うことができる完全な効果を持っていると言うことです。イエス・キリストは私たちの治療を失敗するような藪医者ではありません。だから、このイエス・キリストの治療を受け者はその病の再発をもはや心配する必要はありません。イエス・キリストはご自分の命を十字架でささげることで、私たちの罪のすべての責任を引き受けてくださいました。私たちはこのキリストによってすべての罪が赦されたのです。ですからこのキリストの救いを受けた者は、いつも神と共に生きることができる、天国の国籍を既に受けていると言うことができます。このキリストに救われている者には聖人崇拝や巡礼、そして様々な苦行と言った余計な信心業に頼る必要はありません。そればかりか、それらの物はキリストの救いの確かさを曖昧にする、私たちにとっては信仰の障害物でしかないと言えるのです。
ですから私たちが礼拝の中で預かる聖餐式はこのキリストのただ一度の犠牲の確かさを示すものであり、私たちの救いが確かなものであることを聖餐式は保証してくれるのです。そして、聖餐式がこのようなキリストの恵みを伝えるものとなるためには、いつでもキリストによる救いの素晴らしいかを指し示す聖書の解き明かし、つまり説教と共に行わなければならないのです。
教会では第一、第三の水曜日の夜に「慰めのコイノニア」と言う本の読書会を行っています。この本の中で牧師や長老たちが病床の会員の元に行って共に礼拝をささげ聖餐式を執行することがとても大切であることが語られていました。私たち人間の心は日々変わりやすいものです。特に、病気や、ましてや自分の死を身近に感じるような病床に置いて、私たちは不安を感じるかも知れません。そのとき、病床で行われる聖餐式はキリストの救いが確かであることを示すものとなります。聖餐式にあずかるものはキリストの一度きりの十字架の出来事が私の人生に起こった出来事となり、そこから豊かな慰めと励ましを受けることができるようになるのです。
…………… 祈祷 ……………
主なる神よ。 あなたの御言葉を感謝いたします。私たちは今日、あなたの御子が、ただ一度で、すべてを成し遂げてくださったことを改めて学びました。 主よ、自分で何かを付け足そうとしていた私たちの思いをお赦しください。不安や恐れから、十字架の十分さを疑っていた私たちを憐れんでください。どうかこれからは、完成された救いの上に立ち、安心してあなたに仕える者としてください。主の晩餐にあずかるとき、そこに新しい犠牲を求めるのではなく、すでに与えられた恵みを感謝と喜びをもって受け取ることができますように。
ただ一度で十分な救いを与えてくださった主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
あなたも聖書を読んで考えてみましょう
1.「何度もやり直さないと不安になる経験」はありますか。
2.ヘブライ人への手紙は、なぜ「ただ一度」という言葉を強調していると思いますか。
3.Ⅰコリント11章を読んでみましょう。主の晩餐は何を「告げ知らせる」と言われていますか。
4.このハイデルベルク信仰問答の問80は、主の晩餐をどのようなものとして説明していますか。
5.なぜ「繰り返される犠牲」は、十字架の福音と矛盾すると考えられるのでしょうか。
6.私たちはどのような形で「救いに何かを付け足そう」としやすいでしょうか。
7.主の晩餐は、信仰の強い人と弱い人のどちらのためのものだと思いますか。