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2026.3.15「生まれつきの盲人と主イエス」YouTube

ヨハネによる福音書9章1~13、34~38節(新P.184)

1 さて、イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。

2 弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」

3 イエスはお答えになった。「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである。

4 わたしたちは、わたしをお遣わしになった方の業を、まだ日のあるうちに行わねばならない。だれも働くことのできない夜が来る。

5 わたしは、世にいる間、世の光である。」

6 こう言ってから、イエスは地面に唾をし、唾で土をこねてその人の目にお塗りになった。

7 そして、「シロアム――『遣わされた者』という意味――の池に行って洗いなさい」と言われた。そこで、彼は行って洗い、目が見えるようになって、帰って来た。

8 近所の人々や、彼が物乞いであったのを前に見ていた人々が、「これは、座って物乞いをしていた人ではないか」と言った。

9 「その人だ」と言う者もいれば、「いや違う。似ているだけだ」と言う者もいた。本人は、「わたしがそうなのです」と言った。

10 そこで人々が、「では、お前の目はどのようにして開いたのか」と言うと、

11 彼は答えた。「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです。」

12 人々が「その人はどこにいるのか」と言うと、彼は「知りません」と言った。人々は、前に盲人であった人をファリサイ派の人々のところへ連れて行った。

34 彼らは、「お前は全く罪の中に生まれたのに、我々に教えようというのか」と言い返し、彼を外に追い出した。

35 イエスは彼が外に追い出されたことをお聞きになった。そして彼に出会うと、「あなたは人の子を信じるか」と言われた。

36 彼は答えて言った。「主よ、その方はどんな人ですか。その方を信じたいのですが。」

37 イエスは言われた。「あなたは、もうその人を見ている。あなたと話しているのが、その人だ。」

38 彼が、「主よ、信じます」と言って、ひざまずくと…。


1.生まれつきの盲人

 先日の礼拝のお話の中でイエスが二人の目の見えない人を癒されたと言う出来事に触れました(マタイ20章29~34節)。この物語では二人の盲人がイエスに対して「主よ、ダビデの子よ、わたしたちを憐れんでください」と叫び求めると人々が彼らを叱りつけて黙らせようとしました。しかし、彼らはそれでも叫び求めることをやめませんでした。結局この物語では、彼らの声がイエスに届き、彼らは願い通りにその目を見えるようにしていただいたのです。

 今日の物語の中でも一人の同じように目に見えない人が登場します。この物語を記しているヨハネによる福音書9章を読んでみると、このお話の中で彼は主人公のような役割を果たしていることが分かります。ところが先ほどの物語に登場した二人の盲人と違い、この主人公はイエスが彼の前を通りすぎようとしても何の声も上げていません。そしてこの物語の中で彼が声を上げるのは、彼の目が癒やされた後であったことがわかります(9節)。彼はなぜ、イエスの前で声を上げることがなかったのでしょうか。彼はイエスに気づかなかったから声をあげなかったのでしょうか。この物語の最初の部分を読むとイエスとその弟子たちはこの目の見えない人の前で立ち止まり会話を交わしていることが分かります。

「イエスは通りすがりに、生まれつき目の見えない人を見かけられた。弟子たちがイエスに尋ねた。「ラビ、この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか。」」(1~2節)。

 このときイエスとその弟子たちと目の見えない人の間にどのくらいの距離があったのかは分かりません。ただ、先ほどの二人の盲人のお話でもわかるように、当時イエスは人々の関心の的となっていましたから、彼らが町を歩けば、誰でもすぐにわかるような状況になっていたと考えることができます。それでは自分の前にイエスが近づき、わざわざそこで足を止めたイエスに対して、彼はなぜ何も語ろうとしなかったのでしょうか。

 先日の二人の盲人たちと違い、今日の物語に登場する人はここでわざわざ「生まれつき目の見えない人」(1節)と言う説明が記されています。おそらく、ここに彼の行動の秘密を解く鍵が隠されているかもしれません。病気や事故などで、人生の途中で目が見なくなった人と違い、彼は生まれた時から目が見ませんでした。彼にとっては目が見えないことが当たり前であって、彼は目が見えるということが何かを知らなかったとも言えるのです。だから、先日の盲人たちの反応と彼の反応は違うのだと考えることができるのです。

 そう考えるとこの主人公は神に救われる前の私たちの状態とよく似ているのかも知れません。私たちもかつて神を知らず、その教えを知らないで生きていました。それが当たり前であったからこそ、神を信じる必要性も知りませんでしたし、神に救っていただきたいという願いも持っていなかったのです。それではなぜ、そのような私たちが今、神を信じ、イエスによる救いを受けることができるようになったのでしょうか。今日の物語は私たちの人生に実際に起こった出来事を説明する役割をも果たしていると考えることができます。


2.神の御業があらわれるために

 このところ改革派教会が発行している聖書日課「リジョイス」誌は旧約聖書のヨブ記を取り上げています。神に対して厚い信仰を持つヨブにある日、思いもよらない悲劇が起こります。一瞬の内に彼は愛する子どもたちすべてを失います。そしてさらに追い打ちをかけたかのように彼自身が厳しい病にかかって悶え苦しむという状況に遭遇したのです。このヨブのことを心配してやって来た友人たちはこともあろうに、そのヨブを返って苦しめるという罪を犯してしまいます。なぜなら友人たちは、ヨブに起こったすべての災いの原因が彼自身にあると考えたからです。そしてヨブに神に自分の罪を認めて、悔い改めることを友人たちは求めたのです。

 今日の物語の中でも同様なことが起こっています。イエスの弟子たちは生まれつき目が見えないで、憐れにも町で物乞いをしながら生活を送る一人の人の姿を見て、「何て不幸なのだ」と考えました。だからイエスにこう尋ねたと言うのです。

「この人が生まれつき目が見えないのは、だれが罪を犯したからですか。本人ですか。それとも、両親ですか」(2節)。

 「神は理不尽なことは一切何もなさらない…、だからこれには必ず原因があるに違いない」。弟子たちはそう考えたのだと思います。そして彼の目が生まれつき見えないことは不幸だとしか考えられない彼は、その原因が「誰かの犯した罪によるものだ…」と判断しています。これは弟子たちだが犯す問題ではないと思います。私たちも目の前に起こる出来事の本当の意味を知りません。だから、自分の都合からその出来事を勝手に判断して、「何が悪かったのだろうか…」と考えてしますのです。しかし、その自分の判断が私たち自身をさらに苦しめていくことになります。しかし、私たちの人生に起こるすべての出来事の本当の意味を知ってくださっているイエスの答えはこの弟子たちの考えとは全く違うものであったことを聖書は教えています。

「本人が罪を犯したからでも、両親が罪を犯したからでもない。神の業がこの人に現れるためである」(3節)。

 かつて関東大震災のときにその災害で愛する妻を失った一人のキリスト者がその苦難の中で見出した結論は「神は愛なり」という聖書の言葉だったという証しを本で読んだことがあります。たとえどのようなことが起こっても私たちに対する神の愛は変わることがないと聖書を私たちに教えています。そしてその愛を実際に実現させるために来られた方が私たちの救い主イエスです。この目が見えない人の人生もこの後、救い主イエスの御業によって大きく変化を遂げて行きます。


3.見えない人々

 イエスはこの人の目に唾で土をこねて塗った上で「シロアム--『遣わされた者』と言う意味--の池に行って洗いなさい」と命じます。そして彼がその言葉通りにすると、今まで見ることができなかった目が見えるようになったと聖書は報告しています(7節)。古代教会で活躍した有名な神学者アウグスチヌスはシロアムの池で目を洗って見えるようになったこの人物を洗礼志願者の姿を表すものだと解説しています。イエスを信じて洗礼を受けて始まる信仰生活は、この人と同じように、かつては見ることができなかったものをはっきりと見ることができるようになる生活だと説明しているのです。ところで生まれつき目の見えない人がイエスの御業を通して、見えるように変わった、それで「めでたし、めでたし」とお話が終わればよいのですが、この物語はそのような終わり方をしていません。

 この出来事が町の人々に知られることで大騒ぎになって行ったからです。「いったい何が起こっているのか…」と不思議がる人々は、当時の人々から最も知恵ある者として尊敬されていたファリサイ派の人々の元に彼を連れて行きます(13節)。ファリサイ派の人々は旧約聖書の教えに精通していた専門家たちです。ところがここでは彼らの聖書の見方の大きな弱点が明らかになります。

 彼らはこともあろうに、生まれつき目が見えない人の目が見るようになったという出来事に関心を向けたのではなく、彼の目に泥を塗って見えるようにしたイエスの行為が安息日の掟を破る罪だと主張したのです。

「安息日を心に留め、これを聖別せよ。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない」(出エジ20章8~9節)。

 旧約聖書に記されているモーセの十戒の第四戒には「安息日にはいかなる仕事もしてはならない」と教えられています。彼らはイエスが今回したことが医療行為であって、安息日にしてはならない仕事にあたると考えたのです。そして彼らがそう考えざるを得なかった理由は、この当時に人々の評判の的となっていたイエスの人気をこれ以上高めたくないと思ったからだと言えます。そうしなければ人々は自分たちの元から離れ、イエスの元に集まってしまうと恐れたからです。

 結局、彼らはイエスが安息日の掟を破った罪人だと証明するために、本人を問い質したり、それでもだめなので次には彼らの両親を呼び出したりしています。そして彼らに「会堂追放」という脅迫まがいの方法を使って、自分たちの主張を正当化しようとしたのです。

 このことを通して分かって来ることは、自分たちは聖書に対して最高の知識を持ち、すべてのことを正しく理解できていると考えていたファリサイ派の人々が、本当は何も見えていない人々であったと言うことです。彼らは自分たちの立場や考えに固執するあまり、救い主イエスの御業を正しく受け入れることができなかったからです。


4.自分の目でイエスを見る

 一方、このファリサイ派の人々とは全く対照的な姿を示すのが、この物語の主人公とも言える生まれつき目の見えなかった人、そして今はその目をイエスによって見えるようにしていただいた人です。彼は最初、「本当にこの人は目が見えずに物乞いをしていた人なのか」と彼を見て怪しがった町の人々に対して、「わたしがそうなのです」(9節)と公には初めて声を上げています。その後に「イエスという方が、土をこねてわたしの目に塗り、『シロアムに行って洗いなさい』と言われました。そこで、行って洗ったら、見えるようになったのです」(11節)と自分に起こった出来事を町の人々に証言し、同様の説明をファリサイ派の人々の前でも繰り返し行っています(15節)。

 彼はその後もファリサイ派の人々の問いに答える形でイエスについて「あの方は預言者です」(17節)と語ります。そしてイエスを律法違反の罪を犯した罪人だと断じようとする彼らに対して、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません。ただ一つ知っているのは、目の見えなかったわたしが、今は見えるということです」(25節)と重ねて語ります。その上で執拗にこの事実を問うファリサイ派の人々に対して「あなたがたもあの方の弟子になりたいのですか」(27節)と言って、ファリサイ派の人々の反感を買ってしまうのです。そして彼はファリサイ派の人々の脅迫の前でも自分の主張を曲げず、遂に次のように証言しています。

「あの方がどこから来られたか、あなたがたがご存じないとは、実に不思議です。あの方は、わたしの目を開けてくださったのに。神は罪人の言うことはお聞きにならないと、わたしたちは承知しています。しかし、神をあがめ、その御心を行う人の言うことは、お聞きになります。生まれつき目が見えなかった者の目を開けた人がいるということなど、これまで一度も聞いたことがありません。あの方が神のもとから来られたのでなければ、何もおできにならなかったはずです」(30~33節)。

 結局、彼はこの証言をした結果ユダヤ人たちの共同体から追放されてしまいます。つまり「村八分」の処分を受けたのです。そしてその後、見えるようになった目を通してはじめてイエスと出会うことになります。そこでイエスに対して「主よ、信じます」という信仰の告白を彼は行っているのです(38節)。かつては何も見ることができなかった目をイエスが開けてくださることを通して、彼はそのイエスを信じる者とされたと福音書は記しています。そしてこの福音書はこの生まれつき目の見えなかった人の上に起こった出来事を、私たちも同じように経験している、だから私たちも今イエスを「主よ、信じます」と信じることができるようになったのだと教えているのです。

 私は今まで何度か、目が見えない盲人の方々の信仰の証しを記した文章の中でこのヨハネによる福音書9章のお話が、自分をイエスに導く大切なきっかけとなったというお話しを読んだことがあります。彼らも自分の人生で同じような出来事を体験したと語っているのです。しかし、そう証する人たちのほとんどは、この物語の主人公のように見えなかった目が見えるようになるという体験を経験してはいません。いまだに彼らの肉体の目は閉ざされたままなのです。それなのに彼らは喜びをもって、「自分も同じだ」と語っているのです。それは聖書が「見える」と言っているのは、単に目の前のものを肉眼で見る力ではなく、神の愛を見ることができること、神の御業を理解することができることを教えているからです。

 私たちもかつては自分の人生に起こる出来事を見て、「どうして自分の人生は不幸なのか…。自分のせいか、それとも自分を生み育てた両親のせいか」と考えて来たことがあったかも知れません。しかし、イエスを信じることによって、私たちがかつてそう考えていた出来事が、「自分たちの上に神の御業があらわれるため」に大切なことであったことを見ることができるようになったのです。それはまさしく、救い主イエスが私たちのところに近づいて来てくださり、私たちの閉ざされていた心の目を開いてくださったからです。私たちは今日、この物語を通して、私たちの人生の上にも同じようにして起こった神の御業をほめたたえて、感謝をささげたいと思うのです。


…………… 祈り ……………

 恵み深い天の父なる神さま。

 あなたの御業を心から感謝いたします。主イエスが盲人の目を開かれたように、私たちの心の目も開き、あなたの光の中を歩ませてください。私たちに自分の思いに頼るのではなく、あなたを信じて歩む信仰を与えてください。また、あなたが私たちにしてくださった恵みを、喜びをもって証しする者としてください。この一週間も、主が共にいて導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書研究のための設問

1.弟子たちは生まれつき目が見えない人の原因をどのように考えましたか。

2.イエスはその考えをどのように変えましたか。

3.癒された人のイエスについての理解はどのように変化していきましたか。

4.ファリサイ派の人々がイエスのなされた奇跡を認めなかった理由は何でしょうか。

5.イエスが語った「見える者は見えないようになる」とはどういう意味でしょうか。

6.私たちが神の御業を見えるようになるためには何が大切だと思いますか。

2026.3.15「生まれつきの盲人と主イエス」