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  4. 4月5日「あの方はここにはおられない」

2026.4.5「あの方はここにはおられない」YouTube

マタイによる福音書28章1~10節(新P.59)

1 さて、安息日が終わって、週の初めの日の明け方に、マグダラのマリアともう一人のマリアが、墓を見に行った。

2 すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。

3 その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。

4 番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。

5 天使は婦人たちに言った。「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、

6 あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい。

7 それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」

8 婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った。

9 すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した。

10 イエスは言われた。「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる。」


1.日曜日の礼拝の起源

 古来より世界には様々な宗教が存在して来ました。その中でも聖書に根拠を置く宗教として知られるのは、ユダヤ教、イスラム教、そしてキリスト教の三つの宗教です。ところで興味深いことはこの三つの宗教はそれぞれ礼拝をささげる日が違っていると言う点です。ユダヤ教は一週間の内の土曜日を礼拝の日と定めています。またイスラム教徒は金曜日にモスクと呼ばれる場所に集まって礼拝をささげいるようです。そしてキリスト教はと言えば、世界のどこの教会でも毎週日曜日に礼拝をささげているのです。

 「どうしてキリスト教会は日曜日に礼拝を行うのか…」という質問に対して、その詳しい事情をよく知らない日本人の多くからは「日曜日はお休みの日だからでしょう…」と言う答えが返って来るかも知れません。しかし、それでは「なぜ日曜日はお休みの日と定められているか」と問われるとそのように答える人たちも困ってしまうかも知れません。このように日本でも日曜日が休みとされるのは明治維新後に西洋の文化を取り入れようとした当時の政府がカレンダーも西洋式のものを採用したからです。ですからそれ以前の日本ではお休みと言えば「盆と正月」と言った具合で、現在のような定期的な休みの習慣はなかったとされるのです。

 それではなぜその西洋のカレンダーでは日曜日が休みの日とされているのでしょうか。それはキリスト教国である西洋では日曜日は神に礼拝をささげる日と決められて来たからです。日曜日には神に礼拝をささげるために、その日に仕事を休むことが求められていたからです。ですから明治政府は「日曜日は礼拝をささげる日」という西洋の習慣をそのまま取り入れないで、ただその日は仕事を休みにするという部分だけを取り入れて、この習慣を日本に定着させたと言えるのです。

 それではなぜキリスト教会はこの日曜日を礼拝の日として定め、その習慣を守って来たのでしょうか。先ほども申しましたように、旧約聖書の伝統に立つユダヤ人たちは毎週土曜日に礼拝をささげています。それは六日間で天地万物を創造された神が、七日目に休まれたと言う聖書の記述に基づいているからです(創世記2章1節)。そして旧約聖書が教える律法はこの七日目である土曜日を安息日として守るようにと定めてもいるからです(出エジプト20章8~11節)。

 これはイエスが活動された時代も同じでした。そのため金曜日に十字架で死なれたイエスの遺体は土曜日の安息日が始まる前に、アリマタヤのヨセフと言う人物によって急いで墓に葬られました(マタイ27章57~60節)。土曜日には神を礼拝する以外のことが許されていなかったからです。また、この日に埋葬の様子を遠くで見守っていたマグダラのマリアともう一人のマリアもその時には何もできないまま、安息日が終る日曜日を待たなければなりませんでした(同61節)。

 聖書は次の日曜日の日に驚くべき出来事が起こったことを私たちに告げているのです。そしてこの出来事こそが私たちキリスト教徒が日曜日に礼拝をささげるようになった理由を教えています。


2.神による御業

 今日の物語は今申しました理由のように「安息日が終わって、週の初めの日の明け方」から始まっています(28章1節)。ユダヤの暦では一日はその日の日没から始まり、次の日の日没で終わります。つまり、マグダラのマリアともう一人のマリアがアリマタヤのヨセフによってイエスの遺体が葬られる様子を目撃したのは私たちの感覚でいれば、金曜日の日没前であったと言うことが分かります。そしてこの物語は「週の初めの日の明け方」と言われていますから、これは日曜日の朝と言うことになります。今説明したように安息日はすでに土曜日の夕方に終わっていました。しかし、彼女たちは夜の暗闇の中では墓に行ってもどうにもならないと考え、おそらく日が出るのを待ってイエスの墓に行ったと想像することができます。

 それではいったい何のために彼女たちはイエスの遺体が葬られた墓に行こうとしたのでしょうか。同じ出来事を伝えているマルコによる福音書は、婦人たちが「イエスに油を塗りに行くために香料を買った」(16章1節)と言う出来事を付け加えています。この香料は遺体から腐敗臭が出るのを防ぐために使われる道具です。つまり、彼女たちはイエスの遺体にふさわしい処理を行うために墓に行ったのであって、イエスが復活するということを期待してそこに行ったのではないことがこのことからも分かるのです。

 興味深いことに聖書の記述によれば、イエスが何度も語っていた「自分は三日目に復活する」と言う預言の言葉を一番覚えていたのはイエスを十字架にかけたユダヤ人の宗教指導者たちであったことを報告しています。そのために彼らはわざわざこのことを総督のピラトに申し入れて、イエスの弟子たちがイエスの遺体を盗みに来ないようにと、その墓の前に番兵をつけるようにと進言しているのです(マタイ27章66節)。ところがこの言葉を身近でイエスから聞いた肝心の弟子たちはこのイエスの語っていた言葉を思い出した様子はありません。それはこのとき墓に向かった婦人たちも同じであったと考えることができます。それは私たち人間の常識にとって人の死は絶対に動かすことのできない厳しい現実と考えられているからです。どんなに人間の科学の力が進んでも、人間の死と言う現実を克服することはできないのです。ですから私たち人間はただその現実を受け入れるしかできません。それは日曜日の朝にイエスの墓に向かった婦人たちも同じであったと言えるのです。

 しかし、この日曜日の朝に聖書は私たち人間が決して信じることができない出来事が起こったことを告げています。

「すると、大きな地震が起こった。主の天使が天から降って近寄り、石をわきへ転がし、その上に座ったのである。その姿は稲妻のように輝き、衣は雪のように白かった。番兵たちは、恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった」(2~4節)。

 大きな地震の発生と主の天使の出現、これはここで起こった出来事が人間の常識を覆すような神の御業であることを私たちに教えています。つまり、ここで起こっている出来事は人間の知識や力では理解することも受け入れることもできない、神が起こされた現実であることを聖書は私たちに教えているのです。ところが不思議なことにその神の御業は、この後にその出来事を知った弟子たちにも働いたことを聖書は報告しています。なぜなら日曜日の朝にイエスの墓の石を取り除かれた神の御業は、この世の常識によって閉ざされている弟子たちの心をも開いてくださったからです。


3.恐れるな

 このとき、イエスが葬られた墓の石を取り除けた天使は続けてそこにいた婦人たちに次のように語ります。

「恐れることはない。十字架につけられたイエスを捜しているのだろうが、あの方は、ここにはおられない。かねて言われていたとおり、復活なさったのだ。さあ、遺体の置いてあった場所を見なさい」(5~6節)。

 天使が墓の石を取り除いたのは、婦人たちにイエスの遺体がすでにそこにはないことを教えるためでした。この天使の言葉はそのこと語っています。復活されたイエスの体は石で閉ざされた墓の外にも、またすべての扉に鍵をしめてエルサレムの一室に閉じ籠っていた弟子たちの真ん中にも自由に表れる存在であることをこのお話は私たちに教えているのです(ヨハネ20章19節)。

 天使はここで婦人たちに「恐れることはない」と語り掛けています。この言葉はギリシャ語では命令形になっていて「恐れることを止めなさい」と言う意味となります。この時すでに墓を守っていた番兵たちは恐ろしさのあまり気絶していました。彼女たちはかろうじて意識は保っていたようですが、やはり同じような恐れに捕らわれていました。「恐れ」は神の御業を体験した人間に起こる当然の反応だったのかも知れません。しかし、彼女たちの反応はこの天使の言葉を聞くことによって少しずつ変わって行きます。

「婦人たちは、恐れながらも大いに喜び、急いで墓を立ち去り、弟子たちに知らせるために走って行った」(8節)。

 「恐れながらも大いに喜び」と言う大変興味深い表現がここで記されています。この日、墓に向かった婦人たちの心には喜びの一かけらも存在していませんでした。しかし、婦人たちの心は天使からイエスが復活したという神の御業を聞いたときに変化し始めます。これこそが神の御業を伝える福音の力を示す言葉だと言えます。なぜなら神の福音は恐怖に震える人、また悲しみに沈む人の心を変える力を持っているからです。


4.ガリラヤに行きなさい

 さて婦人たちに「恐れることをやめなさい」と命じた天使は続けて、彼女たちに次のような大切な使命を与えています。

「それから、急いで行って弟子たちにこう告げなさい。『あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる。』確かに、あなたがたに伝えました。」(7節)。

 この時代は男性が中心の社会構造が存在していました。この社会の仕組みの中で婦人の立場は弱く、その地位は非常に軽視されていたと言うことができます。裁きの場でも婦人の証言は真っ当に取り扱われることがありませんでした。しかし、これは誤りに満ちた人間の考えたであり、神は全く違った見方をしていることがここでも分かります。なぜなら、神はイエス・キリストの復活という人類にとって最も大切な出来事の最初の証人としてマグダラのマリアともう一人のマリアという二人の婦人を選ばれているからです。

 そして聖書はこの大切な使命を負った二人の婦人に続けて起こった奇跡を次のように伝えています。

「すると、イエスが行く手に立っていて、「おはよう」と言われたので、婦人たちは近寄り、イエスの足を抱き、その前にひれ伏した」(9節)。

 ここで復活されたイエスが婦人たちに語った「おはよう」と言う言葉の元々の意味は「喜べ」と言うものです。聖書はこのようにかつて恐れに支配されていた二人の心が喜びに変わっていく姿を私たちに教えています。なぜなら、真の喜びとは復活されたイエスが私たちに出会い、私たちの心に与えてくださるものだからです。そしてここで続けてイエスが語る言葉は先ほどの天使の言葉と同じようなものとなっています。

「恐れることはない。行って、わたしの兄弟たちにガリラヤへ行くように言いなさい。そこでわたしに会うことになる」(10節)。

 どちらの言葉も「あなた方より先にガリラヤに行かれる」、そして「私の兄弟たちにガリラヤに行くように言いなさい」とガリラヤという場所を指し示しています。ガリラヤはイエスと弟子たちの出身地であり、弟子たちがイエスと出会い、その弟子とされ、生活を共にした地であると言うことができます。ですからこの言葉は、イエスと弟子たちとの生活が再び始まると言うことを意味しているとも言えるのです。イエスの十字架の死で一端は切り離されてしまったかのように見えたイエスと弟子たちとの関係が再び回復することをこの「ガリラヤ」という地名が教えているのです。しかし、再び始まるイエスと弟子たちとの関係は前のものとは全く違いました。なぜなら、復活されたイエスは決して再び弟子たちから離れることはなく、むしろ弟子たちと共に生き、弟子たちに喜びを与えて続けてくださる方だからです。

 時代はこのときから2000年以上の歳月が流れましたが、今イエスを信じている私たちもイエスの弟子とされた者たちと言うことができます。そしてこの日、復活されたイエスは今でも私たちと共に生きてくださり、私たちの心に喜びを与えてくださる方だと言うことができます。

 このイエスの復活を祝うイースターの日曜日の朝に、世界のすべてのキリスト教会が喜びをもって礼拝を神にささげています。どうして、私たちは人の常識に反し、人間の力では決して信じることのできないキリストの復活と言う出来事を、今は喜びを持って受け入れることができるのでしょうか。それは2000年以上の前にイエスの墓に訪れた婦人たちの心の扉を開いて、この出来事を信じることができるようにされた神が、私たちの心の扉をも開いてくださるからです。人間の死と言う人間の力では決して動かすことのできない出来事の前に恐れ、また悲しむしかない私たちの心に神が真の喜びを与えてくださるからです。ですから私たちもキリストの復活に最初に出会った弟子たちと同じようにこの神の御業に感謝をささげ、キリストの復活の証人として日曜日の朝ごとに神に礼拝をささげることができるのです。


…………… 祈り ……………

 恵み深い天の父なる神よ。

 あなたが御子イエス・キリストをよみがえらせてくださったことを感謝いたします。恐れと不安の中にある私たちに、「恐れるな」と語ってくださる主の御声を、今日新たに受け取りました。どうか私たちの心を、復活の希望で満たしてください。どのような状況の中にあっても、主が生きておられることを信じ、歩み続けることができますように。また、この喜びの知らせを、日々の生活の中で分かち合う者としてください。

 私たちの主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書研究のための設問

1.なぜ神は二人の女性たちを最初の証人とされたのでしょうか。

2.この二人の女性の抱いた「恐れ」と「喜び」が同時にあるとはどういう経験を意味しているのでしょうか。

3.天使が語った「ガリラヤで会える」とは、今日の私たちにとって何を意味しますか。

4.キリストの復活を「知らせる使命」は、私たちの生活にどう関わりますか。

5.なぜ現代でも多くの人がキリストの復活を信じ、毎日曜日に礼拝をささげることができるのでしょうか。

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