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2026.5.10「キリスト教的戒規とは」

ヨハネによる福音書20章19~23節(新P.210)

19 その日、すなわち週の初めの日の夕方、弟子たちはユダヤ人を恐れて、自分たちのいる家の戸に鍵をかけていた。そこへ、イエスが来て真ん中に立ち、「あなたがたに平和があるように」と言われた。

20 そう言って、手とわき腹とをお見せになった。弟子たちは、主を見て喜んだ。

21 イエスは重ねて言われた。「あなたがたに平和があるように。父がわたしをお遣わしになったように、わたしもあなたがたを遣わす。」

22 そう言ってから、彼らに息を吹きかけて言われた。「聖霊を受けなさい。23 だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」


ハイデルベルク信仰問答書

問85 キリスト教的戒規によって天国はどのように開かれまた閉ざされるのですか。

答 次のようにです。

 すなわち、キリストの御命令によって、キリスト者と言われながら非キリスト教的な教えまたは行いを為し、度重なる兄弟からの忠告の後にもその過ちまたは不道徳を離れない者は、教会または教会役員に通告されます。もしその訓戒にも従わない場合、教会役員によっては聖礼典の停止をもってキリスト者の会衆から、神御自身によってはキリストの御国から、彼らは閉め出されます。しかし、彼らが真実な悔い改めを約束しまたそれを示す時には、再びキリストとその教会の一員として受け入れられるのです。


1.教会に与えられた鍵の権能

 復活されたイエスが弟子たちの前に現れたとき、その弟子たちに次のような言葉を語られました。

「聖霊を受けなさい。だれの罪でも、あなたがたが赦せば、その罪は赦される。だれの罪でも、あなたがたが赦さなければ、赦されないまま残る。」(22~23節)。

 私たちすべての人間には神の赦しが必要です。それは聖書が何度も私たちに強調している真理であると言えます。そして私たちの救い主イエスは私たちの罪が赦されるために十字架にかかってその罪の責任をすべて負ってくださいました。そしてその弟子たちはこのイエスの赦しの恵みを伝えるために、福音伝道と言う大きな使命を与えられたのです。そしてイエスはこの使命をいつの時代でも果たすことができるようにとキリスト教会を建てくださたのです。ですから復活さえたイエスの語られた言葉は、私たちにも語られている言葉として読むことができるのです。

 ハイデルベルク信仰問答はこの教会に主イエスが与えて下さった使命を「天国の鍵」と言う言葉で言い表しています。誰でもこの鍵がなければ天国に入ることはできません。私たちが神と共に生きることができるのは、教会にこの天国の鍵が与えられているからです。そして私たちは前回の信仰問答の学びの中でこの「天国の鍵」が教会の行う「福音の説教」という働きを通して実現されていることを知りました。教会がキリストの福音を宣べ伝えるとき、その福音を受け入れる者たち、つまりイエスを信じる人々は天国に入ることができるからです。

 今日の信仰問答はこの教会が持っている「天国の鍵」について「福音の説教」とは別に「キリスト教的戒規」があるということを教えています。「キリスト教的戒規」と言う言葉は「福音の説教」と言う言葉以上に、私たちには聞きなれない言葉かも知れません。しかしイエスはこの「キリスト教的戒規」は人間が勝手に作り出したものではなく、イエスご自身が私たちに教えてくださったものだと言えます。


2.キリスト教的戒規とは何か

①イエスが語る罪とは何か

 イエスはマタイによる福音書18章15節で次のような言葉を語っています。

「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる」。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したら…」、この言葉を読むと、私たちはイエスが人間関係の中で起こったトラブルを解決するためにこんなことを語っていると思うかも知れません。しかし、ここで取り扱われている罪はそのようなものでは決してありません。なぜならイエスはこの後の18節で次のようなことを語っているからです。

「はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる」。

 先程の復活されたイエスが弟子たちに語られた言葉と同じような言葉がここでも繰り返して語られています。ここから考えるとここでイエスが語っている「罪」は、誰か個人にではなく、教会に対して、あるいはその教会を建てられた神に対してなされたものだと言うことが分かるのです。つまり、ここで語られている「罪を犯した兄弟」とは一度はイエスの福音を受け入れて教会の仲間とされた人が、その教会と神に対して犯した罪と言えるのです。

 ですからここで誤解してはならないのは、この罪は世間でよく問題とされる仲間の輪を乱すと言うようなものを言っているのでは決してないのです。確かに多数の人間が集まる場所では実際に様々なトラブルが生じます。それは教会でも例外ではありません。その多くは自分と話が合わない、気が合わないと言ったものから生じるトラブルとかも知れません。しかしここでイエスが取り上げられている問題はそのようなものではありません。むしろその人がキリストの福音を蔑ろにして、神から離れてしまおうとするな罪のことを語っているのです。


②イエスが教えてくださったキリスト教的戒規

 イエスはこのような罪を犯した兄弟に対してまずその人に個人的にその罪を忠告して、その人が自分の犯した罪に気づいて悔い改めることができるようにと勧めています。この忠告は相手を苦しめたり、罰するためになされるものではありません。むしろその人が心を改めて、キリストの福音を受け入れることができるようになるために行なわれるものなのです。しかしその上でイエスはその忠告を残念ながら受け入れない人にはどのようにすべきなのかを続けて語っています。

「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(16~17節)。

 おそらくここからが信仰問答が取り上げている「キリスト教的戒規」と言われるものです。まず、教会は告発された罪についてそれが単なる言いがかりや誤解によるものではないかを確かめます。さらには、その罪が個人的な怨恨のようなものではなく、明らかに神と教会に対して犯されている罪であると判断した場合に、その問題の解決のために何らかの処置を行うのです。それが「訓戒」、つまりその人を教会の会議に呼んでその罪を指摘し、悔い改めを促すことです。またその次の段階として「陪餐停止」、これはその人が自分の罪を悔い改めるまで一時的に聖餐式の交わりから除外する方法です。そして最後の手段が「除名」、これは教会員名簿からその人の名前を取り除きくことを表しています。そして教会はこのような「キリスト教的戒規」を行うことで、「天国の鍵」の使命を果たすだと信仰問答は教えています。


3.キリスト教的戒規の目的

 先ほども語ったように、このキリスト教的戒規の目的は教会で起こる個人的なトラブル、例えば最近話題になっているハラスメントのような問題を解決させるためのものではないと言うこと覚える必要があります。確かに教会もこのような人間関係に関するトラブルの解決に関して真剣に取り組む必要があります。しかしだからと言って「キリスト教的戒規」はそのような問題の解決の手段では決してないのです。そのよう意味では教会はこの「キリスト教的戒規」の執行を慎重に取り扱い必要があると言えるのです。

 また更に、この「キリスト教戒規」は罪を犯した人を罰する目的でなされるものではありません。ぜなら、その目的は罪を犯した人が自分の罪を悔い改めてキリストの元に立ち返ることにあるからです。ですから、このハイデルベルク信仰問答の解説を書いたある牧師はこの「キリスト教的戒規」を、私たちがよく耳にする「しつけ」と言う言葉で置き換えて説明しています。

 親は自分の子どもが将来自分で困ることがないように「しつけ」を行う必要があります。そのために子どもが悪いことや間違いを犯せば、お説教をしたりするのです。そしてそれでも子どもが言うことを聞かず、同じ過ちを繰り返すなら時には「晩御飯抜き」とか、「しばらく家の外で反省しないさい」と言うことになる場合もあるはずです。私も子どもの頃、よく親に叱られました。しかし、このようにして親が子どもを「叱る」のは、子どもに対して深い愛情と関心を持っているからではないでしょうか。「子どもがどうなってもよい」と思うような親がいるとすれば、おそらくそのような親は子どもに対して無関心で何もしないはずです。そのような意味で「しつけ」は本来、子どもに対する親の愛からなされるものであると言えるのです。

 キリスト教的戒規もこれと同じであると言えます。イエスの愛は罪を犯した人に対しても変わることが決してありません。イエスはそのような人が悔い改めて自分のところに戻って来ることを待ってくださるのです。そのような意味でこの罪人に対する救い主イエスの愛を教えるのがこの「キリスト教的戒規」の目的であると言えますし、この愛が忘れられてしまえば「キリスト教的戒規」の本来の目的は実現されないとも言えるのです。


4.イエスが共にいてくださる

 さて、イエスはこのように「罪を犯した兄弟をどうするべきか…」と言う話をされた後に、続けて次のようなお話をされています。

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」(19~20節)

 教会では毎週、水曜日の午前中に祈祷会が開催されています。残念ながら平日の昼間と言うこともあるのかも知れませんが、この祈祷会に集まる人は極めて少人数です。また、この祈祷会に限りませんが、同じような少人数の集まりに参加する人たちの中でこのイエスの言葉がよく引用されることがあります。こんなに小さな群れの中にもイエスが共にいてくださるという約束は、私たちに慰めと励ましを与えてくれるからです。しかし、この二人三人の集まりがいったい何をするための集まり、またイエスが何のためにその少人数の集まりに一緒にいてくださるのか、私たちはそのことについて十分に理解してはいないのかも知れません。イエスはここで次のように教えてくださっています。

「はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる」。

 イエスは私たちが心を一つにして祈る願い事を父なる神は必ずかなえてくださると約束してくださいました。実はこの願い事とは聖書を読むと「キリスト教的戒規」との関係から出て来るものであることが分かります。なぜなら罪を犯した兄弟が自分の罪を悔い改めることは決して簡単なものではないからです。それは私たち自身の場合に置き換えて見てもよく分かるはずです。私たちも自分の犯した過ちを認めることも、またそれを悔い改めることもできないような頑なな心を持っている人間だからです。そしてだからこそ、そのような私たちが罪を悔い改めるためには、神の助けが必要となるのです。ここで教会が心を合わせて祈らなければならないのはそのことであると言えるのです。そしてその祈りを可能とするためにイエス自らが私たちの少人数の集まりの中に同席してくださると言うのです。

 イエスが語られたたとえ話に登場する羊飼いのように、イエスは今も教会に与えてくださった「天国の鍵」を使って、迷子になった羊を捜し出し、自分のもとに連れ戻ろうとされているのです。


…………… 祈り ……………

 恵み深い天の父なる神よ。

 あなたは教会に、天の御国の鍵の務めを委ねてくださいました。

 どうか私たちが、この務めを正しく果たすことができるよう、知恵とへりくだりをお与えください。

 キリスト教的戒規を行うときも、裁く心ではなく、キリストの愛をもって、その人の回復と救いを願うことができますように。また悔い改める者を喜んで迎え、教会が赦しと回復の場となりますように。 そのためにも私たちの教会をあなたの愛で満たされる場としてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【信仰問答の内容のための質問】

1.イエスが教会に与えてくださった「天国の鍵」とはどのようなものですか(問83)。

2.あなたもマタイによる福音書18章15~20節を読んでみましょう。

3.ここでイエスが取り上げている「罪」とはどのようなことを言っていると思いますか。

4.イエスはこのような罪に対処するためにどのような方法を教えてくださっていますか。

5.ハイデルベルク信仰問答の問85はキリスト教的戒規の方法をどのように教えていますか。

6.このキリスト教的戒規の目的は何ですか。また、教会にはこのキリスト教的戒規を実際に運用するためにどのような姿勢が求められていますか。

7.イエスが私たちのような小さな群れの中に共にいてくだると言う約束をあなたはどのような思いで受け止めていますか。

2026.5.10「キリスト教的戒規とは」