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  4. 5月3日「心を騒がせるな」

2026.5.3「心を騒がせるな」YouTube

ヨハネによる福音書14章1~12節(新P.196)

1 「心を騒がせるな。神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい。

2 わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。

3 行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる。

4 わたしがどこへ行くのか、その道をあなたがたは知っている。」

5 トマスが言った。「主よ、どこへ行かれるのか、わたしたちには分かりません。どうして、その道を知ることができるでしょうか。」

6 イエスは言われた。「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。

7 あなたがたがわたしを知っているなら、わたしの父をも知ることになる。今から、あなたがたは父を知る。いや、既に父を見ている。」

8 フィリポが「主よ、わたしたちに御父をお示しください。そうすれば満足できます」と言うと、

9 イエスは言われた。「フィリポ、こんなに長い間一緒にいるのに、わたしが分かっていないのか。わたしを見た者は、父を見たのだ。なぜ、『わたしたちに御父をお示しください』と言うのか。

10 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられることを、信じないのか。わたしがあなたがたに言う言葉は、自分から話しているのではない。わたしの内におられる父が、その業を行っておられるのである。

11 わたしが父の内におり、父がわたしの内におられると、わたしが言うのを信じなさい。もしそれを信じないなら、業そのものによって信じなさい。

12 はっきり言っておく。わたしを信じる者は、わたしが行う業を行い、また、もっと大きな業を行うようになる。わたしが父のもとへ行くからである。

13 わたしの名によって願うことは、何でもかなえてあげよう。こうして、父は子によって栄光をお受けになる。

14 わたしの名によって何かを願うならば、わたしがかなえてあげよう。」


1.心を騒がせる弟子たち

 高校生の頃、デンマークの哲学者でキルケゴールと言う人物が書いた「不安の概念」という本を書店で購入して読んだことがあります。結局、難しくてそこに何が教えられているのか、さっぱり分からないまま途中で読むのを止めました。当時、自分でも言いようのない不安を抱えていた私はその解決の糸口を求めて、その本を購入したのですが、残念ながらその答えを見出すことができなかったのです。

 この後に別の心理学の本で読んで分かったことですが、人間が抱える「不安」はその原因となる対象が漠然としていて捉えようがないのだそうです。一方それに対して、人間が同じように抱く「恐怖」の場合にはその原因がはっきりしていると言います。この「恐怖」のように原因がはっきりしている場合には、その問題が解決すれば同時にその「恐怖」もなくなります。しかし、「不安」の場合にはその原因が分からない訳ですから、いつまでも人は「不安」から解放されることができません。その本の説明によれば恐怖はいかなる動物でも感じられるものですが、不安は人間だけが感じるものだと教えられていました。動物は自分を攻撃する対象に「恐れ」を抱き、その敵から逃げたり、戦いに備えようとします。それは人間も同じであると言えます。しかし、人間はこの「恐怖」だけではなく、得体のしれない「不安」をいつも抱えて生きなければならないのです。

 今日の聖書の箇所は「心を騒がせるな」と言うイエスが弟子たちに語られた言葉で始まっています。この時、弟子たちの心は不安と恐怖で騒がしく揺れ動いていました。この原因ははっきりしています。イエスがこれからどこかに行ってしまうこと、またそのイエスの行くところに弟子たちはついて行けないということをイエスが語られたからです(13章33節)。またこの言葉の中でイエスは、弟子のペトロに「イエスを知らない」と否認する出来事が必ず起こるとまで告げられているのです(13章36~38節)。

「イエスがいなくなってしまったら自分たちはどうなるのだろうか…」。まさにこの時の弟子たちはイエスが自分たちから離れていなくなってしまうということから、言いようない不安を感じて心を騒がしていたと言えるのです。

 さて何度も説明しているように、この福音書はこの物語に記されている出来事が起こったはるか後に記されています。すでにその時代にはこの物語に登場するイエスや弟子たちの姿を実際に自分の目では見た人々はすでに世を去っていました。ですからこの福音書はイエスの姿を今は目に見ることができない人々に、今も変わらずイエスが共に生きてくださっていることを教えるために書かれていると言えます。だからこそここで「心を騒がせるな」と語られているイエスの言葉は、この物語に登場する弟子たちだけではなく、今、この物語を聖書で読んでいる私たちにも語られている言葉であると考えてよいのです。


2.神を信じ、私を信じなさい

①信じること

 それではここで不安感じ、心を騒がせている弟子たち、またこの弟子たちと同じように今、不安の中で苦しんでいる私たちにイエスはどのようなことを教えてくださっているのでしょうか。。イエスは次のように語っています。

「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」(1節)。

 私たちが解決のつかない不安から解放される道についてイエスは「神を信じなさい」と教えてくださっています。また、神が私たちを救うために遣わしてくださった救い主イエスを、つまり「自分を信じる」ことだと教えてくださるのです。

 ここで「信じる」と言われていることは、単に神が自分の目には見えないが、実際におられることを認めること、つまりその存在を信じると言うレベルの信仰を指しているのではありません。確かに現在の多くの日本人は「自分は特定の信仰を持たない」と考えています。しかし、その人々も自分の目に見えない何らかの存在を信じているからこそ、お正月になると大挙して神社仏閣にお参りに行くのではないでしょうか。

 また、多くの人々は自分の人生を支配する目に見えない運命のようなものを信じているはずです。だから現在でもたくさんの人々がその運命を知るために占い師の元にやって来るのです。

 イエスがここで語っている「信じる」と言う言葉はそのような多くの日本人が持っている信仰を言っているのではありません。この「信じる」と言う言葉は神を信頼して生きること、また救い主イエスを信頼して生きていくことを教えている言葉だからです。

 この神を信頼して生きる私たちの人生は自動車の運転でたとえることができます。今までの自分の人生では私たちは必死になって自分でその車のハンドルを握って運転して来ました。しかし、神を信らして生きる人生とは、私たちがその自動車の運転席から降りて、そこに代わりに救い主イエスに座ってもらうこと、その方に運転をしてもらうことを意味しているのです。私たちはその自動車の助手席に座って、イエスが目的地に向かって運転してくださる姿を安心して眺めているだけでよいのです。なぜなら私たちの救い主イエスは私たちが行くべき人生の目的地をちゃんと知っておられるからです。またそのイエスは安全に私たちを目的地で送り届けることができる技術を身に着けた名ドライバーでもあるからです。


②イエスが道を造ってくださった

 だからイエスはご自分が誰よりも信頼できる人生のドライバーであることを次のような言葉でも私たちに教えてくださっています。

「わたしは道であり、真理であり、命である。わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない」(6節)。

 イエスは私たちを天の父である神のもとに必ず連れて行ってくださるとここでも約束してくださっています。私が中学生の頃に学んだある人の詩の中に「私の前には道はない。私の後に道ができる…」。そんな文句があったことを今でも覚えています。この詩人の言葉のように道は誰かが歩むことによってできるものです。私たちが父なる神のもとに行くことができる道をイエスは造ってくださるためにこの地上に来てくださった救い主なのです。つまりイエスの生涯に起こったすべての出来事、特に十字架の死と復活はこの道を造るための御業であったことを聖書は教えているのです。そして私たちは今、イエスがこの道を命がけで造ってくださったからこそその道を安心して歩むことができるようにされているのです。


3.イエスを見たものは神を見た

 また、この物語の中ではイエスと弟子たちとの間に興味深い会話のやり取りが交わされています。今、私たちが学んだ「わたしは道であり、真理であり、命である」と言うイエスの言葉は、このときに弟子の一人であったトマスが「どこに行かれるのですか」(5節)とイエスに質問したことに答えるために語られた言葉です。また、これとは別にフィリポと言う弟子が「主よ、わたしたちに御父をお示しください」(8節)と言う語った言葉に対してイエスは「わたしを見た者は、父を見たのだ」と言う言葉を語ら得ています。

 こんなお話があります。あるとき、池で機嫌よく水浴びをしている像のそばに、小さなネズミが近づいて来ました。そして「象さん、ちょっと池が出てきてくれない…」と語りかけました。象は機嫌よく水浴びをしていたところをネズミに邪魔されてしまったのです。象は最初、このネズミの言葉を無視していましたが、あまりにネズミがしつこく願うので、仕方がなく池の水からあがります。するとその姿を一瞬確認したネズミは「もういいよ」と言ってそこを立ち去ろうとします。これには象も腹が立ちました、「なぜ自分を池の水の中からあがらせようとしたのか」と象は尋ねます。するとネズミは「象さんが間違って僕のパンツをはいていないかどうかを確かめたかったのさ…」と言うのです。

 この物語を本に記した一人のキリスト者はこの物語の結論に「私たちが神について考えていることは、象にネズミのパンツをはかせるようなものだ」と解説しています。それほど私たちが持っている神についての知識は的外れのものでしかないと教えているのです。このような人間の知識では私たちが真の神を理解することも、また私たちを支配する不安から解放されることもできません。ですからイエスは、私たちが正しく神を理解するためには自分を通して神を知ること、つまり救い主イエスの教えを通して聖書全体の教えを理解することを勧めているのです。

 そうではければ私たちにとっては聖書の教えは誰にも理解できない、矛盾に満ちた教えになってしまいます。聖書を熱心に読んでいるのに、返って混乱してしまう人の特徴はここにあります。しかし、私たちがイエスは通して聖書を読むなら、そこに無条件の愛を持って私たちを受け入れてくださる神を本当の姿を知ることができます。また、私たちがすべての罪から解放されて、神のもとで平安に生きることができることを理解するのです。


4.イエスが造ってくださる私たちの居場所

 さて、話が前後しますが、イエスは自分が弟子たちから離れて行く理由について次のような説明をされています。

「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える。こうして、わたしのいる所に、あなたがたもいることになる」(2~3節)。

 何度も皆さんにお話したように、聖書が教える「天国」は死んだ人だけが行くところでは決してありません。なぜなら「天国」とは神がおられる場所を表しているからです。つまり、私たちが神とともに生きることができる場所であれば、そこがどこであっても「天国」と言うことができるのです。そしてイエスはわたしたちのために「場所を用意しに行く」とここで語っています。これは、私たちが神と共に生きることができるようになること、私たちが天国の住民となることを表しているのです。この言葉の通り、イエスはこの後に十字架でご自分の命をささげることで、私たちを罪と悪から救い出し、神と共に生きることができるようにしてくださったのです。

 そしてイエスはさらに続けてこうも語っています。「行ってあなたがたのために場所を用意したら、戻って来て、あなたがたをわたしのもとに迎える」。ここでイエスは私たちのもとに戻って来てくださると約束してくださっています。この約束は第一にイエスが遣わして下さる聖霊が私たちに与えられることを教えています。なぜなら、この聖霊が私たちの心に働いて、イエスへの信仰を告白し、自分が今、天国の住民とされていることを私たちに教えて下さるからです。

 また第二にこのイエスが戻って来てくださると言う約束は、やがて世の終わりが実現するときにイエスがこの地上に再び来てくださることを表しています。なぜなら、聖書が教える世の終わりは人々を恐怖に陥れるものではなく、神の救いが私たちの目に見える形で完全にあらわれるときのことを教えているからです。そのとき、私たちが信じていたものすべてが本当であったことを、自分の目でも確認することができるのです。

 このように私たちの救い主イエスは、私たちのために父なる神の元に場所を準備してくださると約束してくださっています。このお話の最初に人間だけが不安を抱く存在だと言うことを取り上げました。ある意味でこの不安は私たちがいるべき場所にいないために起こっていると考えることもできます。

 私たちは皆、迷子になって本来居るべき場所を見失ってしまったからこそ、自分の人生で不安を抱えて生きなければならなくなってしまったのです。イエスは私たちが本来居るべき場所、つまり神のもとで生きることができるようにしてくださる私たちのための救い主なのです。そして、その救い主イエスは私たちに信仰を与えることによって、私たちをこの不安から解放してくださることを今日の聖書の箇所で私たちに教えているのです。


…………… 祈り ……………

 父なる神よ

 不安に満ちるこの世にあって、あなたは「心を騒がせるな」と私たちにも語ってくださいます。私たちが自分の力ではなく、あなたに信頼して歩むことができますようにしてください。そしてあなたが道であり、真理であり、命であることを、日々の信仰の歩みの中で経験させてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

聖書研究のための設問

1.弟子たちがイエスから「心を騒がせるな」と言われたのはなぜですか。あなたが「心騒ぐ」のはどのようなときですか。、そのときのあなたは何を頼りにしていましたか。

2.弟子のトマスとフィリポの問いの違いは何ですか。

3.イエスが「道・真理・命」と語る言葉はそれぞれ何を意味していますか。イエスを「道」として生きるとは具体的にどういうこと意味するのでしょうか。

4.「わたしを見た者は父を見た」とはどういう意味を教えていますか。あなたは今まで神をどのような方法で知ろうとしていましたか。

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