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2026.5.31「神の愛と私たちの救い」YouTube

ヨハネによる福音書3章16~18節(新P.167)

16 神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである。

17 神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである。

18 御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである。


1.神の愛と三位一体

①グレートテキスト

 もう、どのオリンピックのことであったか忘れてしまいましたが…。以前、テレビ中継でスタンドの観客の姿が映されたときに、そこに座る誰がか英語で「ヨハネ3:16」と言う大きな文字の書かれたプレートのようなものを持っているのを見たことがあります。このような場で特定の主義や主張をアピールするのが許されているのか、どうなのか私は知りません。ただ「ヨハネ3:16」と言う文字だけではまるで暗号のようで、それが何を表しているのか分からないかもしれません。しかし、キリスト教や聖書についての知識がある人は、この言葉の意味がすぐに理解できるはずです。それは今日の聖書箇所で示されているように、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」と言うヨハネによる福音書3章16節の言葉を表しているからです。

 私は茨城県の出身ですが、その茨城県だけに流れる地方のラジオ放送局では毎週日曜日の晩になると、短いキリスト教の番組が放送されていました。その番組ではあまり日本語が流暢ではない外国人宣教師が、一言一言、その意味を確かめるように聖書のメッセージを語ります。そして最後は必ずこのヨハネによる福音書3章16節の言葉が読まれるのです。

「それ神はその独り子を賜ったほどに世を愛し給えり、すべて彼を信じる者の亡びずして永遠の生命を得んためなり」(日本聖書協会文語訳)。

 当時の私はキリスト教とは全く無縁の環境で生きていましたが、この外国人宣教師が語る文語訳の聖句を繰り返し聞いて、すっかり暗記してしまいました。そしてその宣教師のまねをしたりした思い出があります。

 おそらく聖書の中でこのヨハネによる福音書3章16節の言葉はもっとも多くの人に知られ、また覚えられている聖句かも知れません。英語ではこのような聖書箇所を「グレートテキスト」と呼呼び、誰もが知っている聖書の言葉であるからこそ、説教者にとっては説明が難しい箇所だと考えられているのです。


②教理用語である「三位一体」

 私はこの礼拝で教会が使っている教会暦で定められている聖書の箇所を取り上げて語って来ました。この教会暦では受難節から始まって、先週私たちがささげた聖霊降臨日に至るまで長い期間にかけて、イエスの救いの御業を学ぶようにとそれぞれの聖書箇所が選ばれています。そしてその最後の仕上げとされるのが今日の「三位一体の主日」と言うことになってします。

 キリスト教会ではこの「三位一体」と言う言葉を用いて自分たちが信じている神を表します。しかしこの「三位一体」と言う言葉は聖書のどこを探しても記されていないのです。なぜならこの「三位一体」と言う言葉はキリスト教会が作り出した教理用語の一つだからです。

 私たちの改革派教会は特にこの教理を大切にする伝統を持っています。この教理とはキリスト教についての教えを取り扱うのがその役目であると言えます。そしてそのキリスト教の教えはすべて聖書の言葉に基づいていまから、教理とは聖書の教えと言うことになります。聖書はいったい、私たちに何を教えているのか。キリスト教会はその聖書の教えに基づいて、聖書を通して御自身を明らかに私たちに示してくださる神を「三位一体の神」、つまり父なる神、その独り子であるイエスとそのイエスが遣わしてくださる聖霊をただお一人の神であると信じて来たのです。その上で、この三位一体の神が私たちを救い出すという出来事に深く関わっていることを表すのが今日のヨハネによる福音書の言葉であると言えるのです。


2.確信のないニコデモの信仰生活

 それではこの聖書の言葉はどのような状況の中で語られた言葉なのでしょうか。聖書を読むとこの言葉が語られるきっかけなる出来事が最初に記されています。ここではファリサイ派に属するニコデモと言う人物がイエスの前にやって来たことが語られています。彼は「ユダヤ人たちの議員であった」と説明されています。これはニコデモが当時のユダヤの最高機関である宗教議会のメンバーの一人であったことを表しています。このメンバーは誰でも簡単になることはできません。ですからニコデモは相当な地位と名声を持っていた人物であることが分かります。さらに彼の属するファリサイ派は聖書の教えを熱心に研究し、またそれを人々に教える宗教家たちの集団です。つまり、ニコデモは聖書についての知識も十分に持っていた人物であることが分かります。そしてこのニコデモがある夜のこと、イエスの元を訪ねて来たことでこのヨハネによる福音書の物語は記しているのです。

 それではこのニコデモはイエスの元に何のために訪ねて来たのでしょうか。それは彼の口からは結局明らかにされていなません。ただ、このニコデモに対して語られたイエスの言葉から彼の持っていた問題を推察することができます。なぜならイエスはニコデモに対してこう語っているからです。

「はっきり言っておく。人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)。

 「神の国を見るためにはどうしたらよいのか…」。どうやらニコデモには自分が神の国の住民であるというはっきりとした確信がなかったようなのです。神は本当に自分を神の国の民として受け入れて下さっているのか彼には分からなかったのだと思います。当時のファリサイ派の人々は神の掟である律法を熱心に守ることを強調していました。神は律法を熱しに守る者を受け入れてくださり、神の国の住民としてくださると信じていたからです。つまり、聖書の教えに従って自己改造を遂げて行くことが神の国に入るために大切だとファリサイ派の人々は教えていたのです。

 この関係はある意味では恋愛中の男女に例えることができるかも知れません。恋愛中の二人はお互いに相手が自分を気に入ってくれるように努力しようとします。しかし、もしそのとき自分の本当の姿を隠して、相手が気に入ってくれる誰かを演じているなら、やがてその関係には必ずほころびが生じてしまうはずです。もし、自分が本当の自分ではなく、偽りの自分を演じているなら、それがいつかは相手にバレるかも知れないという心配を抱えて生きることになるでしょう。もしかしたらニコデモは自分と神との関係についてそのような心配を感じて、密かにイエスの元にやって来て、正しい答えを知ろうとしたのかも知れません。


3.キリストを通して示された神の愛

①私たちに与えられた神の愛の証拠

 しかし、そのような悩みを抱えるニコデモにイエスは「新たに生まれなければ」と語り出したのですからニコデモは頭を抱え込むこととなります。自己改造であれば、自分の努力や精進で何とか成し遂げることができるかも知れません。しかし、「新たに生まれる」ということは自分では無理です。なぜなら私たちは誰も自分の意志でこの世に生まれて来た人は一人もいないからです。つまり、「新たに生まれる」と言う言葉には、それは自分の力では不可能なこと、そこに自分とは全く違う誰かの力が介入しなければならないことを表しているのです。そしてニコデモの抱えた疑問に詳しく答えるのがこの3章16節の言葉だと言えるのです。

「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」。

 ここには私たち人間に求められている努力は何も語られていません。そうではなく、ここには私たち人間が新たに生まれることができるために神がなしてくださったことが語られているのです。「神は、その独り子をお与えになった…」。神は私たちが新たに生まれるために、神の御子であるイエス・キリストを私たちに遣わしてくださったと言うのです。

 ファリサイ派のニコデモは今まで「神は律法を守る者を愛し、そうでないものを憎んでいる」と教わって来ましたし、また自分でもそう人々に教えて来たはずです。しかし、この聖書の言葉では神は「世を愛された」と語っています。聖書が用いる「世」とは神に敵対して歩み続ける、罪人である人間の世界を表す言葉です。ですから神は自分ではない誰かを必死に演じる者だけを愛されているのではないのです。なぜなら、神の前では私たちの愚かな演技は一切通用することができないからです。しかし、神は私たちが他の誰かを演じなくても、私たちのそのままの姿を愛してくださるのです。そしてその神の愛の証拠として私たちに与えられたのがイエス・キリストであるとこの言葉は語っているのです。


②神の愛を表すプレゼント

 私たちは自分に対する神の愛をどこで知ることでき、また確信することが出来るのでしょうか。意外と多くの人は、それを自分の毎日の生活の中で見つけ出そうとします。自分にとって好ましい出来事が起これば「自分は神に愛されている」と考えます。またそれとは逆に自分にとって不都合な出来事が起これば「自分は神に愛されていない」と感じているのです。もちろん、私たちの人生は必ずしも自分にとって好ましいこと、また都合のよいことだけが起こる訳ではありません。また、そのときは好ましい出来事と思えても、後になって見ると、そのことでもっと大きな問題を抱えることになったと言うようなことも起こり得ます。こうなると、私たちは自分が神に愛されているかいないかを、その人生の最後の結末を迎えるまで分からないし、確信も持てなくなると言うことになります。

 せっかく聖書に出会い、神を信じる信仰生活に入っても、自分が神から愛されているのか、いないのかよく分からないとしたら、それは悲惨です。このような問題で悩む人はもっと信仰生活に熱心になって、自分に対する神の愛を得ようと努力するかも知れません。また、やがてはその努力もできない自分を知ると、結局自分は神に愛されてはいないのだと絶望して、その信仰さえ失いかねないことになってしまうのです。

 今日の聖書の言葉は自分に対する神の愛を確かめる方法はただ一つであると教えています。それは御子イエス・キリストを通して神の愛を確かめる方法です。神は本来、神に愛される資格を何一つ持たない私たち罪人のために、その愛する御子を私たちのために与えてくださったのです。ですから神の愛は、神が私たちのために与えてくださったイエス・キリストと言うプレゼントによって明らかにされたと聖書を教えているのです。


4.確かな救い

「神が御子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、御子によって世が救われるためである」(17節)。

 芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」では生前に犯した罪の報いのために地獄で苦しむ主人公が登場します。そして極楽浄土に住むお釈迦様が一本の蜘蛛の糸を降ろして彼を救おうとされるのです。しかし結局、自分だけが助かりたいと願った主人公の前に、蜘蛛の糸はぷっつりと切れてしまいます。

私たちに対する神の救いの御業はこのように頼りのないものでは決してありません。なぜなら、イエス・キリストが私たちを救い出すために私たちのところに来てくださったからです。私たちを救おうとされる父なる神の愛は、このイエス・キリストの御業を通して確かに実現したのです。ですからこの神の愛は決して蜘蛛の糸のように頼りにならないものではないのです。聖書はこの神の愛について別の箇所で次のように教えています。

「死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(ローマ8章38~39節)。

 また、今日のヨハネによる福音書の言葉は次のように続けられています。

「御子を信じる者は裁かれない。信じない者は既に裁かれている。神の独り子の名を信じていないからである」(18節)。

 私たちは自分が救われているかどうか、本当に神に愛されているかどうかを確かめるために神の裁きのときを待つ必要はないとこの言葉を教えています。私たちは自分の犯した罪のために裁判所でその判決が下されるのを待つ被告人ではないのです。なぜなら、私たちはすでにイエスを信じて、その救いの恵みに与かることができているからです。つまり私たちの信仰生活はイエス・キリストの恵みによって救われたことを喜ぶ生活であって、イエス・キリストを通して表された神の愛に感謝をささげる生活であると言えるのです。

 ニコデモは「どうしたら新しく生まれることができるのか」と悩みました。この言葉で語られている「新しく生まれる」と言う表現は私たちが神の愛を受け入れ、その神を信じることを言っていると考えることができます。つまり、信仰とは自分の力で自分の人生を自己改善することを言うのではありません。信仰とは神が私たちを新しく生まれさせてくださる御業を表しているのです。

 先週の聖霊降臨日の礼拝で学んだように、私たちのために天に昇られてイエス・キリストは私たちを助けるために聖霊を送ってくださいました。この聖霊が私たちの人生に起こす奇跡こそ私たちに与えられた信仰であると言えるのです。私たちの信仰はこの聖霊が私たちに与えてくださるものであり、また同時にその信仰を成長させ、完成に至らせることができるのも聖霊であると言えるのです

 このように今日の聖書箇所は私たちに対する神の愛が、父なる神、子なる神であるイエス・キリスト、そして聖霊なる神の御業として私たちの人生の上に確かに表されていることを教えていると言えます。


…………… 祈り ……………

 恵み深い天の父なる神様。

 あなたが御子を与えるほどに私たちを愛してくださったことを感謝します。この愛を、ただ知識としてではなく、心から受け取ることができますように。そして、私たちを御子を信じる信仰へと導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【聖書研究のための設問】

1.「神は世を愛された」の「世」とは誰を指していますか?

2.「ひとり子を与える」とは具体的に何を意味していますか?

3.「信じる」とは単なる知的同意とどう違いますか?

4.なぜ「信じない者はすでに裁かれている」と言えるのでしょうか?

5 神の目的が「裁きではなく救い」であることは、あなたの神理解にどんな影響を与えますか?

6.あなた自身は今、「永遠の命」をどのように理解していますか?

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