2026.6.14「善い行いの意味」YouTube
エフェソの信徒への手紙2章8~10節(新P.353)
8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。
9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。
10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。
ハイデルベルク信仰問答書
問86 わたしたちが自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず、恵みによりキリストを通して救われているのならば、なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか。
答 なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。
それは、わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって讃美されるためです。さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬度な歩みによってわたしたちの隣人をもキリストに導くためです。
1.なぜ善い行いをしなければならないのか
①モチベーション(動機付け、やる気)について
アメリカの行動心理学では人間によい習慣を身に着けさせるための学習方法として「オペラント=条件づけ」と言うものがあります。単に口で説得しても行動が改まらない人間に対して、その人が善いことをすれば褒美を与え、反対に悪いことをすれば罰をあたえるという方法です。そうすると人はご褒美をもらいたいと言う思いから、自然と行動を改めざるを得ないと言うのです。ただ、この学習方法の最大の弱点はご褒美がもらえなくなったら、それをする必要が無くなる訳ですから、自然とその人間の行動も元に戻ってしまうと言うところです。ご褒美がもらえなくなれば、モチベーション(動機付け、やる気)も無くなってしまうからでしょう。
今日のハイデルベルク信仰問答では「なぜわたしたちは善い行いをしなければならないのですか」と言う質問が登場します。この言葉の意味は私たちが「善い行いをしなければならない」と考えるモチベーション(動機付け、やる気)はどこから生まれるのかということを問うていると考えることができます。
②律法主義を批判したイエス
この問いの言葉を理解するために重要になるのは、イエスが地上で活動していた時代のユダヤ人たちが「善い行い」をするためのモチベーションをどこで見出していたかと言うことです。ご存知のように当時の人々は「人は善いことをすれば神に愛され、祝福が与えられるが、悪いことをすれば神に憎まれ、厳しい裁きを受ける」と考えていました。私たちはこの考えを「律法主義」と呼んでいます。この「律法主義」に基づいてユダヤ人たちは日々、神から与えられた律法を厳格に守ることで、神に愛される者となり、その祝福を受けることができる者になろうと努力していたのです。
しかし福音書に登場するイエスはこの「律法主義」を徹底的に批判し、ユダヤ人たちと対立することとなりました。なぜならイエスは、神は私たち人間を無条件で愛してくださり、その恵みを与えようとしてくださる方だと教えたからです。そしてその愛の証拠として父なる神は御子イエスをこの地上に遣わしてくださったと聖書は証言しているのです(ヨハネ3章16節)。
今日のハイデルベルク信仰問答問86は「わたしたちが自分の悲惨さから、自分のいかなる功績にもよらず、恵みによりキリストを通して救われている」と語っています。これはここまでハイデルベルク信仰問答を学んで来た私たちが何度も聞いた聖書の教える大切な真理であると言えます。ところがそうなると一つの問題が生まれます。そうなると私たちが善い行いをする意味はどこにあるのかと言う問題です。その問題に答えるように今日の聖書箇所のエフェソの信徒への手紙の言葉は次のように私たちに教えているのです。
「なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです。」(2章10節)
この言葉から聖書が教える「善い行い」とは、神に造られた人間にとって何かを得るための手段と言うものではなく、むしろ人間の生き方そのもの、つまり人間の人生の目的であると言うことができるのです。
2.善い行い=人生の目的
私は20歳の頃に教会に通うようになり、そこで洗礼を受けてクリスチャンとなりました。それまで教会や聖書とは無縁な生活をしていた私がクリスチャンになった理由の一つは「人生の目的」が分からないと言う問題を抱えたことでした。当時の私は様々な挫折を経験して、生きる気力を失っていました。そこで様々な哲学書や宗教書などを読んだりしてその答えを求めたのですが、結局、自分が生きる人生の目的を見つけ出すことができずに苦しんでいたのです。
そんなとき、たまたま聞いたラジオで改革派のラジオ伝道部が製作していた伝道番組を知り、私はその番組に、自分の悩みを手紙に書いて送ったのです。すると番組を担当していた一人の牧師から丁寧な手紙が届きました。今は残念ながらその手紙の内容を思い出すことはできないのですが、一つだけ覚えていることがあります。それはその手紙の中にウエストミンスター小教理問答書という印刷物が同封されていたことでした。私がその印刷物を開くと、驚くことにその最初のページに「人のおもな目的な何であるか」という文章が書かれていたのです。さらにそこには「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことである」と言う答えまで書かれていました。私はそのとき、この答の意味を十分には理解することはできなかったのですが、人生の目的について完結で、明確に書かれた文章に初めて出会い感銘を受けた記憶があります。
「善い行い」は私たちの人生の手段ではなく目的であると先ほど語りました。そのことをこのウエストミンスター小教理問答書の答えを踏まえて考えるなら、「善い行い」とは誰かに褒められるような何かの行為を言っているのでなく、「神の栄光をあらわし、神を永遠によろこぶ」ことを言っていると考えることができます。エフェソの信徒への手紙の言葉で言えば、私たちは「神の栄光をあらわし、神を永遠によろこぶ」ように神によって創造された存在であると言えるのです。
3.善い行いの意味
それでは私たちが「善い行い」、つまり「神の栄光をあらわし、神を永遠によろこぶ」ことは、私たちの人生にどのようない意味をもたらすのでしょうか。信仰問答はこのことについて答えの部分で次のように説明しています。
「わたしたちがその恵みに対して全生活にわたって神に感謝を表し、この方がわたしたちによって讃美されるためです」。
私たちが善い行いをする第一の意味は、私たちを恵みによって救ってくださった神に感謝を表すため、そしてその神を賛美するためだと信仰問答は教えています。イエスが語られた有名な言葉に「明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である」(マタイ6章34節)というものがあります。おそらく多くの人がこの言葉を聞いて慰めと励ましを受けて来たと思います。私たちの抱く「思い悩み」の内容はほとんど自分自身のことに関係すると言えます。そして聖書はその私たちをイエス・キリストが救ってくださったということを教えています。イエスは今も私たちの人生を導いてくださる方だとも教えているのです。だから、私たちはもはや自分の人生のことで思い悩む必要はないと言えるのです。なぜなら、私の人生の問題をすべてイエスが引き受けてくださっているからです。だから、この信仰問答はイエス・キリストによって救われた自分の人生を思い煩いのためではなく、神に感謝を表し、神を賛美するために使うことができると教えているのです。私たちの人生を自分自身のためではなく、神のために用いることができるようになったのです。
4.聖霊によって生まれ変わった私たち
さらに信仰問答は私たちが行う「善い行い」の意味について、次のような理由を付け加えて説明しています。
「さらに、わたしたちが自分の信仰をその実によって自ら確かめ、わたしたちの敬度な歩みによってわたしたちの隣人をもキリストに導くためです。」
ここには私たちの「善い行い」は「自分の信仰をその実によって自ら確かめ」るためにあると教えられています。また同じように私たちの「善い行い」は「わたしたちの敬度な歩みによってわたしたちの隣人をもキリストに導くため」にあるとも教えられているのです。
ここで注意すべきなのは、もし私たちの「善い行い」が自分の努力から生まれるとしたら、それは私たちが神に救われているという確かさを表す証拠にはなり得ないと言うことです。「善い行い」がそのような自分の頑張りから出るものなら、「自分は案外、すばらしい人間ではないか」と自分の力を過信したり、うぬぼれることできても、神に救われているという確かさを表すものにはなり得ないです。
また、この答の後半部分の「隣人をキリストに導く」というところでも、私たちは誤解をしないようにしなければなりません。なぜならその「善い行い」が人の頑張りによって生まれるならば、それによって賞賛を受けるのはその人自身であって、キリストではないからです。そうなれば私たちの隣人たちは「あなたは素晴らしい」と言ってくれたとしても、キリストに対しては何の関心も持つということは無くなるでしょう。
この誤解を取り去るために私たちに参考となるのはこのハイデルベルク信仰問答の中に記されている次の文章です。
「なぜなら、キリストは、その血によってわたしたちを贖われた後に、聖霊によってわたしたちを御自身のかたちへと生まれ変わらせてもくださるからです。」
この言葉によれば私たち人生はキリストに救われることによって根本的に変えられていることが分かります。本来、私たち人間は善い業を行うために神によって創造された者たちでした。しかし、その人間は自ら罪を犯すことによって、神に背き、神と共に生きることができなくなってしまったのです。人間はそれ以来、善い業を行う力も、またそれをしようとする意思も失ってしまっていたのです。キリストは御自身の救いの御業を通して、私たちの人生を神に造られた本来の姿に造り変えてくださる方なのです。そしてそのキリストが天から送ってくださる聖霊は私たちの人生を導くために私たちの内で働いてくださる方です。このことを踏まえて考えると、キリストによって救われた私たちの行う「善き行い」は私たちから出て来るものではなく、キリストが天から送ってくださった聖霊の御業によるものだと言うことになります。だから、私たちの善き行いを通して、私たちの内で働いてくださる聖霊の御業を、私たちは確かめることができるようになるのです。
また、これは隣人をキリストに導くことにおいても同じことが言えると思います。「どうしてあの人の人生は変わったのだろうか」。人々は私たちの生き方の変化を見て、その変化がどこから生まれたのかに関心を抱きます。それは自分の努力ではなく、キリストが私たちを変えてくださったからです。それが分かれば、隣人たちは私たち自身に関心を抱くのではなく、私たちを変えてくださったキリストに関心を抱きくようになるはずです。
5.聖霊に委ねる信仰生活
ここで一つ注意しなければならないことは私たちの内で働く聖霊は神であって、私たちの人生を支配してくださる方であると言うことです。だから聖霊は私たちがコントロールできるお方ではありません。皆さんの中には「神を信じていても、自分が救われているのか確信が持てない」という悩みを持っておられる方もいるかもしれません。意外と多くの人が「自分の今の信仰生活が自分の期待通りではない」と考えることで信仰の確信を失っているのです。しかし聖霊は私たちが思い通りの人生を送るために働く方ではありません。むしろ、私たちが神の栄光をあらわし、神を永遠によろこぶ人生を送ることができるようにしてくださる方だと言えるのです。そしてその聖霊はイエス・キリストの救いを私たちの信仰生活を通して日々実現してくださる方だとも言えるのです。だから、私たちはこの聖霊の御業に信頼して、私たちの日々の信仰生活を歩む必要があると言えます。
また、これは隣人をキリストに導くということでも同じことが言えます。現在、私たちの周りに生きる人々は神に対しても、信仰に対しても関心を持つことがほとんどありません。だから私たちは「どうしたら隣人をキリストに導くことができるのか」と悩み続けています。しかし、だからこそ私たちは私たちの内で働く聖霊なる神に信頼して、信仰生活を続けていくことが大切なのではないでしょうか。
たとえば「日曜日は休みの日」としか考えていない人たちには、その日曜日に教会の礼拝の熱心に通い続ける私たちの行動が不思議なはずです。「教会の礼拝で何があるのだろうか…」と。だからこそ、その人々が抱く疑問が伝道へとつながるのではないでしょうか。また、試練の連続のような人生を送りながらも、神の感謝をささげて生きる信仰者の人生を見て、他の人が「どうしてなのか」と関心を持つかも知れません。他人から見たら失敗だらけのような人生を送っている信仰者が、それでも人生を投げ出すことがなく、神と共に生きようとする姿を見て不思議に思う人もいるはずです。だからこそ、私たちは神に感謝をささげる礼拝生活を続けて行きたいと思うのです。そうすれば聖霊なる神が私たちの人生を用いて、キリストのすばらしさを証してくださるからです。
…………… 祈り ……………
恵み深い天の父なる神様。
あなたが私たちを、行いによらず、ただ恵みによって救ってくださったことを感謝いたします。どうか私たちが、義務ではなく喜びをもって、あなたに従う者とならせてください。私たちの小さな歩みを通して、あなたの御名があがめられますように。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
【信仰問答を理解するための設問】
1.ハイデルベルク信仰問答の問86を読んでみましょう。この問答はどんな質問に答えていますか?
2.私たちは「何によって」救われると教えられていますか?
3.では、なぜ善い行いをする必要があるのでしょうか?
4.善い行いをするのは私たちが「救われるため」ですか、それとも私たちが「救われたから」ですか?
5.「神への感謝として生きる」とは、どんなことだと思いますか?
6.あなたは今の自分の信仰生活や人生の何を示すことで、神の恵みをあかしできると思いますか。