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2026.6.28「失って得る命」

マタイによる福音書10章37~42節(新P.19)

37 わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない。わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしにふさわしくない。

38 また、自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない。

39 自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである。」

40 「あなたがたを受け入れる人は、わたしを受け入れ、わたしを受け入れる人は、わたしを遣わされた方を受け入れるのである。

41 預言者を預言者として受け入れる人は、預言者と同じ報いを受け、正しい者を正しい者として受け入れる人は、正しい者と同じ報いを受ける。

42 はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける。」


1.親子の絆は不必要?

①十二弟子に語られたイエスの言葉

 今日の聖書のお話の中にはイエスが語られた「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」(37節)と言う言葉が紹介されています。「親子の関係は何よりも大切である」。私たちは子どもの頃から、そのような言葉を聞いて育てられてきました。確かにこの親子関係も時代が経つにつれて大きく変化していると言えます。それでも、親子関係の重要さは変わることはないと言えるのです。それなのに、なぜイエスはこの親子関係を否定するような言葉をここで語っているのでしょうか。

 また、イエスは「自分の十字架を担ってわたしに従わない者は、わたしにふさわしくない」(38節)とも語っておられます。聖書はイエスが十字架にかけられ、殺されたことを私たちに教えています。それではイエスがここで語っている「自分の十字架」とはいったい何を意味するのでしょうか。私たちもイエスと同じように十字架にかけられて殺されることを覚悟しなければならないと言うことを教えているのでしょうか。

 また、イエスはこの言葉に続けて続けて「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」(39節)とも語られています。確かにイエスは十字架にかけられて殺された後、三日目に甦られたと聖書は私たちに教えています。それでは、私たちが「命を失って得る」とはどのようなことを言っているのでしょうか。今日はこれらのイエスの言葉を手掛かりに、私たちが神から与えられた人生を生きるとはどのようなことなのかについて皆さんと少し学んでみたいと思うのです。

 まず、今日のイエスの言葉を理解するために大切なのは、この言葉がいつ、誰に対して、どのような状況で語られているかと言う事情です。この言葉が記されているマタイによる福音書10章をご覧になられると、この章はイエスが十二人の弟子たちをお選びになり、彼らを宣教のための旅に送り出すと言う出来事から始まっています。十二人の弟子はイエスに代わって神の国の福音と言う「よき知らせ」を携えて、多くの人に伝えるという大切な使命をイエスから与えられているのです。そこでイエスがこの弟子たちに語られたのが、その使命を遂行するために必要なアドバイスです。そのような意味で、今日の言葉はイエスによって宣教旅行に派遣された弟子たちに、その覚悟を教えるためにイエスが語った言葉であると考えることができます。大切な使命を遂行するためには、すべての力をその使命を果たすために集中しなければなりません。そこで語られたのがイエスの語られた厳しい言葉だったとも考えることができます。

 しかしだからと言って「自分たちは十二弟子ではないので、この言葉とは関係ない」と私たちは考えてはならないと思います。なぜなら、イエスを信じて生きるとは、私たちもこの十二弟子と同じような決心を持って、イエスに従うことを意味しているからです。


②家族の反対?

 余計な話になるかも知れませんが、私は以前からお話しているように、キリスト教とは全く無関係な家庭で育てられました。私の父は仏教系の新興宗教の信者で、私は子どものころから線香の香りがただよい、父親のお経をあげる声を聞きながら育ちました。ちょうど20歳のころ私は近所にあった教会に行き始め、やがてそこで洗礼を受けてクリスチャンになりました。また、その後、数年してから神学校に入って、牧師への道を進むことにもなりました。ところが、私は自分のキリスト教信仰のことで家族と対立したという経験をほとんど持っていません。クリスチャンになってからも親子の関係は全く変わらず、そのような意味で今日のイエスの「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」と言う言葉が身に沁みえるような体験をしたことはないのです。

 ただ、なぜ私の両親は私の信仰に反対しなかったのかと言う理由ははっきりしています。それは教会に行く前の私の生き方があまりにもひどく、両親を苦しめ続けるような状態がずっと続いていたからです。そんな私がある日を境に心を入れ替えて「教会に行く。クリスチャンになる」と言い出したので、両親は「これで息子も少しはまともになるかも知れない」と考え、決してその決意に反対することはなかったのです。


2.親を神としてはならない

 「わたしよりも父や母を愛する者は、わたしにふさわしくない」と言うイエスの言葉は、決して家族の絆を否定するために語られているのではありません。キリスト教会が大切に教える神の戒めである「十戒」の第五戒に「あなたの父と母を敬え」と教えられています。なぜなら家族は私たちの人生を祝福するために神が与えてくださったものだと言えるからです。つまり、この家族を否定することは、神の恵みの御業を否定することにもなると言えるのです。それでは、イエスの言葉は私たちに何を教えているのでしょうか。それはおそらく、自分の「父や母」は神ではないこと、だからその神を差し置いて、自分の父母を第一に考えてはならないことを教えていると言えるのです。

 どんなによいものであったとしても、その使い方を間違えば大きな災いを招くこととなります。親子関係もそれと同じだと言えます。大切なことはそのすべてを私たちのために与えてくださった神の思いを通して、考え、用いることであると言えます。ですから不完全な人間でしかない自分の親に対して、まるで神のような完全さを求めることは「偶像崇拝」の罪を犯すことになります。また、その逆に親は自分の子どもの人生を神のように支配してはならないのです。

 このマタイによる福音書8章にはイエスの弟子の一人が「主よ、まず、父を葬りに行かせてください」(21節)と語り、イエスの招きを断る弟子のお話が記録されています。しかしイエスはこの人に対して「わたしに従いなさい。死んでいる者たちに、自分たちの死者を葬らせなさい」(22節)と語り、その考え方が間違いであることを教えたのです。これは「親が息を引き取ったばかりなので、その葬儀などで忙しいから今はあなたに従うことできません」と言っているのではありません。むしろ「今は元気に暮らしている親が死んだら、自分は自由になるので、そのときになったら従います」と言う意味で、イエスに従いたくない自分の気持ちを親の世話を理由に断っている言葉になっているのです。

 イエスの私たちに対する招きは命への招きであると言えます。ですから何かの理由をつけてその命への招きを断ってしまうなら、私たちはすべてのものを失ってしまうことになると言えるのです。ですから、イエスを信じてそのイエスに従うことは、親子の絆を捨てることではありません。むしろ、神が与えてくださるすべての関係を正しく用いるために、またその関係を通して神からの祝福を受けるために私たちはまず、イエスの招きに答える必要があるのです。


3.私たちが本当に生きるためには

 毎朝届く新聞の広告欄を見ても、またテレビで流れるCMを見ても、そこには健康を維持するための商品の情報があふれています。誰もが「健康で長生きしたい」と考えることは決して間違いではないと思います。しかしそんな願いを抱く私たちにイエスは「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」と教えています。いったいイエスはこの言葉で私たちに何を言おうとしているのでしょうか。

 今や日本の平均寿命の長さは世界でも上位になっています。しかし、それでは私たちはその人生の時間を何に費やしているのでしょうか。どんなに人生の時間が長くなったとしても、その人生を何のために用いいるかが分からなければ、これは大変なことになってしまうはずです。

 昔のロシアでは、囚人を苦しめるための不思議な拷問がありました。それは囚人に井戸から水を汲ませて、それを地面に撒かせると言う拷問です。囚人は何かをするために水を撒くのではありません。ただ、そのようにして無意味な行動を繰り返させられるのです。この拷問を受けると必ず囚人の精神は異常を来たすと言われています。なぜなら、人は無意味な行動に堪えることはできない生き物だからです。「老後はゆっくりとした生活が送りたい」。そう考えて仕事を引退した人も、毎日何をして良いのか分からずに、困ってしまっていると言うお話をよく聞くことがあります。

 また最近、ある人が書いた本を読んでいたら、「人は毎日、刺激と価値を求めながら人生の時間を費やしている」と言う言葉が記されていました。人は空しい時間を埋めるために絶えず刺激を求めて生きています。しかし、その刺激は一時的なもので、その後にはすぐに空虚な思いがその人の心を支配するのです。また、人は何らかの価値をいつも求めて生きています。「これをすればどんな価値を自分は得ることができるのか…」。そう考えて毎日の行動を選択し、また人間関係についても、自分に有益な価値をもたらす関係だけを維持し、そうでない関係を切り捨てようとします。しかし、その反面で私たちは他人から「この人は価値のない人間である」と判断されてしまうことを恐れています。またそう判断されて、自分が皆から捨てられてしまうのではないかと心配するのです。

 そんな私たちにイエスは「自分の十字架を担ってわたしに従いなさい」と教えています。それでは一体この「自分の十字架を担う人生」とはどのような人生なのでしょうか。その意味はイエスの地上での生き方を知ることで理解することができます。イエスは自分の人生のために刺激を求めることは決してありませんでした。また自分に役立つ価値を求めて、他人を切り捨てることはありませんでした。なぜなら、イエスは自分を地上に遣わした父なる神の御心を求め、その御心を実現するためにその人生の時間を使ったからです。

 だから「自分の十字架を担う」とはこの神の御心を私たちが自分の人生で実現させることを教えていると言えます。自分に命を与え、家族やすべての人間関係を与えてくださった神の御心を大切にして、その神のために自分の人生を用いることが「自分の十字架を担う」と言うことだと言えるのです。それは自分に都合のよいことを求めて生きる人生とは違いますから、むしろ十字架を負うような苦しい経験をすることがあるかも知れません。しかし、イエスはその人生を通してこそ、私たちは本当の「命を得る」ことができること、つまり本当に神に祝福された人生を送ることができると言っているのです。


4.私たちの人生の本当の価値

 「自分の命を得ようとする者は、それを失い、わたしのために命を失う者は、かえってそれを得るのである」。この言葉をイエスから実際に直接聞くことができた十二人の弟子たちは、残念ながらこのイエスの言葉通りに生きることができなかったことを聖書は教えています。彼らはイエスが逮捕され、十字架にかけられようとしたとき、自分の命を惜しんで、イエスの前から逃げ去ってしまったからです。しかし、その弟子たちもイエスが復活され、天に昇られた後に、全く違った人生を送るようになったことを聖書は教えています。それはイエスが弟子たちの生涯を全く新しいものとしてくださったからです。イエスがこの言葉のように弟子たちが生きることができるように、聖霊を遣わしてくださったからなのです。ですから、私たちは今日のイエスの言葉を、単なるイエスの私たちに対する命令や教えとして聞くのではなく、イエスが私たちの人生をどのように変え、また生きるようにしてくださるかを知らせる約束の言葉として読む必要があると言えるのです。

 イエスは今日のお話の結論で次のような言葉を残しています。

「はっきり言っておく。わたしの弟子だという理由で、この小さな者の一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる人は、必ずその報いを受ける」(42節)

 この言葉はイエスの弟子として生きる私たちに親切にしてくれる人には神から祝福が与えられるという約束が語っています。私たちは普段この言葉とは逆に、「自分の人生に関わったとしても、その人は迷惑するだけだ…、何の得にもならない」と考えることはないでしょうか。それはおそらく、私たちが神からいただいている自分の人生の本当の価値を知らないからです。

 イエスはここで私たちの人生の本当の価値を教えています。私たちの人生には神からすでに豊かな価値が与えられているのです。だから私たちに関わる人たちもその神から豊かな報いを受けることができるのです。ですから今日の聖書箇所に記されるイエスの招きは、私たちがこの素晴らしい人生の価値を見出すためのイエスからの招きであるとも言えるのです。だからこそ、私たちは何よりもまず、このイエスの招きに答えて、イエスに従って生きることが大切であると言えるのです。


…………… 祈り ……………

 恵み深い天の父なる神よ。

 私たちは、自分の人生を握りしめようとし、あなたよりも他のものを優先してしまう弱さを持っています。どうか、あなたの招きに答えて、自分の十字架を担って従うことができるように助けてください。そして、私たちがあなたに従うことで、あなたから与えられた人生を豊かに生きることができるようにしてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【聖書理解のための設問】

1.イエスは「わたしよりも愛する者はふさわしくない」と言われましたが、ここで何を一番大切にするよう求めておられますか?

2.「自分の十字架を担う」とは、当時の人々にとってどのような意味を持つ言葉でしたか?また、わたしたちにはどのような言葉を持つ言葉だと考えることができますか?

3.「命を得ようとする者は失い…失う者は得る」という言葉は、どのような逆説(パラドックス)を表していますか?

4.弟子を「受け入れること」が、なぜイエスを受け入れることになるのでしょうか?

5.「水一杯」のたとえは、私たちの毎日の信仰生活にどんなことを教えています。

2026.6.28「失って得る命」