2026.6.7「キリストの命にあずかる」
ヨハネによる福音書6章51~58節(新P.176)
51 わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる。わたしが与えるパンとは、世を生かすためのわたしの肉のことである。」
52 それで、ユダヤ人たちは、「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と、互いに激しく議論し始めた。
53 イエスは言われた。「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。
54 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる。
55 わたしの肉はまことの食べ物、わたしの血はまことの飲み物だからである。
56 わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、いつもわたしの内におり、わたしもまたいつもその人の内にいる。
57 生きておられる父がわたしをお遣わしになり、またわたしが父によって生きるように、わたしを食べる者もわたしによって生きる。
58 これは天から降って来たパンである。先祖が食べたのに死んでしまったようなものとは違う。このパンを食べる者は永遠に生きる。」
59 これらは、イエスがカファルナウムの会堂で教えていたときに話されたことである。
1.天からのパン
今日の聖書の箇所はイエスの語られた「わたしは、天から降って来た生きたパンである。このパンを食べるならば、その人は永遠に生きる」(51節)と言う言葉から始まっています。またさらにこの言葉を理解できずに混乱するユダヤ人たちの姿も記されています(52節)。なぜならイエスはここで何度もご自分の「肉」を食べ、その「血」を飲むということを強調されているからです。いったいイエスはこの表現を使って私たちに何を教えようとされているのでしょうか。今日は、このイエスの言葉からイエスの命と私たちの命との関係、特にイエスが私たちに与えてくださる永遠の命について皆さんと一緒に少し考えてみたいと思います。
ところで、どうしてユダヤ人たちはこのような言葉をイエスから聞かされることになったのでしょうか。まず、私たちはその理由を考えてみたいと思います。このヨハネによる福音書6章はイエスが五つのパンと二匹の魚を使って五千人以上の人々を満腹させたという奇跡の物語から始まっています。余計なことかもしれませんが、実は新約聖書に収められている四つの福音書が共通して取り上げるイエスの奇跡は多くはありません。ところが五つのパンと二匹の魚の奇跡は四つの福音書が共通して取り上げているのです。きっとこの出来事は多くの人に心に残されるほど印象的ものであったに違いありません。その証拠にこの奇跡を体験した人々はイエスの居場所を探し求め、またイエスの後を追い始めたからです。なぜ、人々はイエスにこれほどまでに関心を持つことになったのでしょうか。イエスはこのことについて26節で次のように語っています。
「はっきり言っておく。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ」。
旧約聖書の出エジプト記を読むと、昔エジプトの奴隷状態から解放されたイスラエルの民が荒れ野をさ迷い、食べ物に事欠く状態になったことがありました。そのとき神は天からマナという不思議な食べ物を降らせて、彼らの飢えを解決されたのです(出エジ16章)。おそらくこのときイエスの後を追った人々はこの奇跡と同じように、イエスが自分たちのために不思議な食物を天から降らせ、自分たちの飢えの問題を解決してくれるに違いないと考えたのではないでしょうか。だから、まるでストーカーのように彼らはイエスの後を追ったのです。そしてその人々に対してイエスは「わたしは、天から降って来た生きたパンである」と語られたのです。ですからこの言葉は出エジプトで神がイスラエルの民のためにマナを送られたのと同じように、神が与えてくださる真の食物こそイエス・キリストなのだと言うことを教えていることが分かるのです。
2.永遠の命とイエス
ところで出エジプト記が伝えるマナの奇跡の出来事について、同じ旧約聖書の申命記にはモーセが語ったとされる次のような興味深い言葉を記されています。
「主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった」(申命記8章3節)。
この言葉によれば、そもそも荒れ野でイスラエルの民が飢え、その彼らに神がマナを降らせたのは、ただ彼らの一時的な飢えを解決させるためではなかったことが分かります。むしろこの出来事は彼らの命が神によって支えられていること、そしてその民が生きるために必要なのは神の口から出る言葉だと言うことを教えためだったと言うのです。皆さんもご存知であると思いますが、この言葉はそのまま新約聖書にも引用されています。それはイエスが荒れ野で悪魔から誘惑を受けたときに、「石をパンに変えてみろ」と言う悪魔の言葉にイエスは「『人はパンだけで生きるものではない。神の口から出る一つ一つの言葉で生きる』/と書いてある。」(マタイ4章4節)とこの申命記の言葉を使って答えられているのです。
確かに私たちが生きていくためには衣食住、その中でも特に食べる物が必要です。それがなければ私たちは死ぬほかありません。だから聖書は食物の必要を決して否定している訳ではありません。むしろ、そのすべてのものも神が私たちに与えてくださる神からの贈り物であると教えています(マタイ6章25~27節)。しかし、この聖書の言葉が示そうとするのは、私たちには肉体の命を支える食物以上に大切にしなければならないものがあると言うことなのです。なぜなら、この世でどんなに食物に満ち足りた生活をしたとしても、人の命はそれだけで決まってしまうものではないからです。イエスが語られた「愚かな金持ちのたとえ」はそのことを私たちに教えています(ルカ12章13~21節)。このお話の中に登場する金持ちは一生の間遊んで暮らせるような食物を手に入れて喜びました。しかし、その晩に金持ちの命はとられてしまい、結局は彼が集めた食物は彼の命のためには何の役にも立つことがなかったと言うのです。
だからイエスは私たちの命のために役に立たない食物ではなく、私たちの命を生かす真の食物を与えるためにやって来られたとここで語っておられるのです。
3.イエスの肉を食べる
①「永遠の命」は終わりのない命か
「はっきり言っておく。人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ、あなたたちの内に命はない。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠の命を得、わたしはその人を終わりの日に復活させる」(53~54節)。
イエスはここで私たちにいつかはなくなってしまうこの世での命ではなく、「永遠の命」を与えるために来られたことを語っています。そして私たちがこの永遠の命にあずかるために、必要なのものが、イエスの肉でありその血、つまりイエスの命であることを教えておられるのです。
ここでもう一度確認すべきなのは聖書の語る「永遠の命」とは何かと言うことです。なぜなら、私たちは「永遠」と聞くと終わりのない、あるいは限りない命と言ったように時間の概念の一つとだけ考えてしまうところがあるからです。しかし、聖書が語る「永遠」と言う言葉はもっと豊かな意味を表していると言えるのです。なぜなら、この「永遠」とは神の御性質を表す言葉だからです。これに対して私たちが考えている「時間」はその神が創造してくださった被造物の一つに過ぎません。
もし、私たちの地上の命がそのままいつまでも続くと考えたら、それは私たちにとって幸いなことと言えるでしょうか。いえ、それはむしろ呪いのように私たちを苦しめるものになってしまうかも知れません。日本のある地方では、人魚の肉を食べて800年も生き続けたという女性についての伝説が残されているそうです。そしてこの物語は悲劇のような内容になっています。ここでイエスが語る「永遠の命」の祝福は決してこのようなことを語っているのではないのです。
②イエスの命によって神の命にあずかる
ですから、イエスが教える「永遠の命」とは言い換えれば「神の命」と呼んでよいものであると言えます。つまり永遠の命の祝福とは私たちがこの神の命に与かって生きることだと言ってよいのです。だから永遠の命は時間が無限に続く命と言うよりは、私たちの知っている地上の命とは全く質の違う神の命の世界で私たちが生き生きとした祝福にあずかることだと言ってよいのです。
それではこの命を私たちがいただくためにはどうしたらよいのでしょうか。聖書は神がこの命を私たちに与えるために、御子イエス・キリストをこの世に遣わされたと語っています。
「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3章16節)。
私たちが生きるために必要としている食物も、動物や植物という命を犠牲にして作られていると言うこともできます。つまり、私たちの日々の生活はたくさんの命の犠牲によって成り立っているのです。そして私たちが永遠の命を生きるためも、同じように命の犠牲が必要だと言うことを聖書は教えています。それが神の御子であるイエス・キリストの命です。なぜなら、罪人である私たちはそのままでは神の命に与かることも、神と共に生きることも不可能だからです。ですから私たちの罪の問題を解決するためにイエス・キリストが遣わされました。そしてイエスは十字架の上でご自分の命を犠牲としてささげられたのです。ですから私たちはこのイエス・キリストの命によって永遠の命に生きるものとなったのです。
実はここで語られている「食べる」と言う表現は、決して上品な食事の風景を表す言葉ではありません。ギリシャ語原語では動物が餌をがつがつと食べる、そのような様子を表すのがこの言葉の本来の意味だからです。だからイエスの肉を食べ、イエスの血を飲むことは、私たちの永遠の命のために、最も大切なことだと言えるのです。イエスの命を食べなければ、私たちは生きて行くっことができないのです。このように考えるなら、私たちが永遠の命をいただくために御子イエスの肉を食べること、またその血を飲むこととは、私たちがイエス・キリストによって実現した救いをいただくこと、つまり私たちの信仰生活を表しているとも言えます。私たちはイエス・キリストを信じ、受け入れることで、永遠の命に生きることができるからです。つまりイエスを信じて生きることこそが、イエスを食べると言うことになるのです。
4.食べることで何が起こるか
①命の変化を確信させる聖餐式
残念ながらこのイエスの言葉をこの時に直接に聞いてユダヤ人の多くは、イエスの言葉の意味を正しく理解することできませんでした。だから彼らは「どうしてこの人は自分の肉を我々に食べさせることができるのか」と考え、混乱するしかなかったのです。しかし、このユダヤ人たちと違い、今、このように教会に集められて礼拝をささげている私たちはイエスの語った「人の子の肉を食べ、その血を飲まなければ」と言う言葉を聞いてもたぶん、ユダヤ人たちのように抵抗を感じることはないと思います。それは私たちが実際に礼拝の中で、キリストの肉と血を表すパンとぶどう酒にあずかる聖餐式と言う儀式を知っているからです。私たちはこの聖餐式に参加する度にイエスの語られた「取って食べなさい。これはわたしの体である」、「皆、この杯から飲みなさい。これは、罪が赦されるように、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である」(マタイ26章26~28節)と言う言葉を聞いているのです。
ですから私たちが今日の聖書で語られるイエスの言葉を読むことで、私たちはこの聖餐式の恵みのすばらしさをさらになお一層知ることができると言えます。なぜなら、聖餐式でイエスの肉であるパンを食べ、その血であるぶどう酒を飲むということは、私たちがこのイエスの命によって救われて、今、永遠の命に生きる者とされていることを私たちに確信させるものだからです。私たちは今、限りある地上の命の中で生きています。しかし、聖書は私たちがイエス・キリストを救い主と信じて受け入れたときに、永遠の命に生きる者とされたことをはっきりと教えています。私たちの目では、また私たちの持つ感覚ではこの大切な変化を理解することができないかも知れません。しかし、イエスはこの命の変化を聖餐式の出来事を通して私たちに明らかにしてくださるのです。
②聖霊によってイエスの命の力が現れる
また、この聖餐式の意味は私たちに永遠の命が与えられていることを思い出させるだけではありません。なぜなら、イエスは実際にこの聖餐式にあずかる私たちに天から聖霊を送ってくださるからです。そして聖霊はこのイエスが与えてくださる命のすばらしい力を私たちの日々の生活の中で実現させるために働いてくださるのです。
薬局やコンビニなどに行くと、そこではいろいろな栄養ドリンクが売られています。多くの人は元気がないとき、また「ここ一番に頑張りたい時」などにこの栄養ドリンクを飲むことがあるはずです。私も以前はよく買って、飲んでいたことがあります。不思議なことにこのドリンクを飲むと何か元気が出来てきたような気がしたものです。しかし、この栄養ドリンクが引き出す力はその人が元々持っていた力に過ぎません。だからその効果は一時的であり、元々の体力が失われていけばその効果も無くなってしまうと言えるのです。
聖霊が私たちの信仰生活に現わす力はそのようなものではありません。なぜなら、聖霊は私たちにイエスの命の力を与えてくださり、またその力のすばらしさを示してくださるからです。
確かに今、私たちが持っている地上の命は年齢を増すに従って日々衰えて行きます。ですから昔は当たり前にできたことが、できなくなったことでショックを覚えることもよく起こりもします。しかし、聖餐式でキリストの肉であるパンを食べ、その血であるぶどう酒を飲む者は、私たちがすでにイエスが与えてくださる命の中で生かされていることを知っています。私たちは今すでに十字架で命をささげられ、三日目に復活されて、今は天で永遠に生きておられるイエスの命にあずかる者とされているのです。そして聖霊はこの命のすばらしさを私たちに日々、教えてくださり、またその命の希望で満たしてくださる方なのです。ですから私たちはこのイエスの命のすばらしさを覚えて、今日も聖餐式の恵みにあずかりたいと思うのです。
…………… 祈り ……………
恵み深い天の父なる神様。
御子イエス・キリストが、私たちのためにその体を裂き、血を流してくださったことを感謝します。どうか今、私たちが信仰をもってこのパンと杯を受け、キリストの命にあずかることができますように。
私たちを新しくし、永遠の命そのものであるあなたとの交わりの中にとどまらせてください。
主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。
【聖書研究のための設問】
1.イエスが語った「いのちのパン」とは具体的に何を意味しているのでしょうか。なぜイエスはここで「肉」という強い表現を使ったのだと思いますか。
2.イエスの体と血を「食べる/飲む」と「信じる」はどう関係すると思いますか。
3.この箇所は私たちが教会の礼拝であずかる聖餐とどのように関係していますか。
4.あなたにとって今日のイエスの言葉はどのような希望を与えていますか。