1. ホーム
  2. 礼拝説教集
  3. 2026
  4. 7月5日「わたしのもとに来なさい」

2026.7.5「わたしのもとに来なさい」YouTube

マタイによる福音書11章25~30節(新P.20)

25 そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。

26 そうです、父よ、これは御心に適うことでした。

27 すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません。

28 疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。

29 わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。

30 わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである。」


1.幼子のような者

①無関心な人々の反応

 今日の礼拝の聖書箇所には次のようなイエスの言葉が記されています。

「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」(28節)。

 イエスの語られたこの言葉はとても有名で、今でも多くの人に知られています。また、教会でも進んでこの言葉を書いた紙を玄関の掲示板に貼って、道行く人に知らせようとすることも多いはずです。

 あるとき、牧師が誰もいないはずの礼拝堂に入って行くと、そこで見知らぬ男性が教会の長いすに横になって寝ているのを見つけました。牧師がびっくりしてその男性を起して尋ねました。「ここで何をしているのか…?」と。その男は玄関に「休ませてあげよう」と言う紙が貼ってあったので、ここは休憩所だと思って、休んでいたと言うのです。おそらく彼はこのイエスの言葉を読んで教会を無料休憩所のようなところと思ったのかも知れません。もちろん、教会では疲れた人が休むくらいのスペースを提供することができるかも知れません。しかし、このイエスの言葉は道行く人に休憩所を提供すると言った意味で語られているのではありません。それではイエスはこの言葉を通して私たちに何を教えようとされたのでしょうか。今日はこのイエスの言葉を中心にして皆さんと少し考えてみたいと思います。

 イエスがいったなぜこのような言葉を語ったのか。またこの言葉の本当の意味は何かということを調べるためには、やはりイエスがこの言葉をどのような状況の中で語ったのかと言うことを理解する必要があると思います。このマタイによる福音書11章は神の約束の通りに救い主が到来することを預言した洗礼者ヨハネについてのお話が記されています。彼は人々に悔い改めを求め、人々の関心を来るべき救い主に向けさせようとしました。ところが当時の多くの人々はこのヨハネの呼びかけに従おうとはしなかったと言うのです。そしてこれはヨハネの預言通りにやって来たイエスに対しても同じことが繰り返されました。なぜなら、人々の関心は全く別のところに向けられていて、彼らはイエスの言葉に耳を傾けることがなかったからです。そこでイエスは「ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う」(18節)と語って、この人々の不真面目で無関心な姿勢を批判されているのです。

 しかし、イエスはこのような出来事を経験しても決して気を落としたり、絶望することはありませんでした。なぜなら、イエスはこのような人々の反応を受けながらも次のように語ったからです。

「そのとき、イエスはこう言われた。「天地の主である父よ、あなたをほめたたえます。これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました。そうです、父よ、これは御心に適うことでした」(25~26節)。

 イエスは目の前に起こっている厳しい状況の中でも、天の父なる神の御業に確信をもっていました。ですからこれらの出来事を通して父なる神の計画が実現していることに感謝して、祈りをささげようとされたのです。それではイエスは目の前に起こる厳しい出来事を通してどのような神の計画が実現していると考えていたのでしょうか。


②幼子=無学で愚かな人々

「これらのことを知恵ある者や賢い者には隠して、幼子のような者にお示しになりました」。

 イエスの語る「知恵ある者や賢い者」とは、当時のユダヤの宗教指導者たち、とくに「ファリサイ派の人々」とか「律法学者たち」と呼ばれる人のことを語っています。なぜなら、彼らは聖書についての詳しい知識を身に着けており、それを人々に教えるという役目を担っていたからです。しかし、福音書はこの人々こそがイエスの教えを拒み、最後にはイエスを十字架につけて殺そうとした張本人たちであることを伝えています。彼らはイエスが神の元から遣わされた救い主であるということを決して認めようとしなかったのです。

 一方の「幼子」と言う言葉は、ここでは「無学で愚かな人々」と言う意味を表すために用いられています。ファリサイ派の人々や律法学者たちは、このような人々と交わりを持つことを避けようとしました。なぜなら、彼らは「無学で愚かな人々」を神に愛されることもなく、見捨てられてしまった人だと考えていたからです。福音書を読むとイエスの周りに集まって来た人々を見て、ファリサイ派の人々が「罪人や徴税人たちと仲良くしている」と批判している部分があります(マタイ9章9~13節)。彼らがそう批判したのは、罪人や徴税人と呼ばれる人を「無学で愚かな人々であり」、自分たちと交わりの持つ資格を持っていない人々だと考えたからです。


2.父を知る者

 それではなぜ、イエスはこのような「無学で愚かな人々」が自分の周りに集まって来ることを喜び、むしろこれが神の計画だと確信することができたのでしょうか。その秘密をイエスは次のように語っています。

「すべてのことは、父からわたしに任せられています。父のほかに子を知る者はなく、子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」(27節)。

 ここには父なる神とイエスとの特別な関係が語られています。なぜならイエスはまことの神の子であり、父なる神の計画によってこの地上に来てくださった救い主だからです。ですから、イエスは父なる神の計画を知ることができる唯一のお方でもあると言えます。イエスが厳しい状況の中でも神に感謝し、祈りをすることができたのは、その計画を彼だけが知っておられ、今、目の前で起こる出来事を通してその計画が実現されようとしていることを理解することができたからです。

 さらにイエスはここで、御自分と父なる神との関係を語るだけではなく、その自分を信じて集まって来る人々と父なる神との関係もここで明らかにしています。「子と、子が示そうと思う者のほかには、父を知る者はいません」と言う言葉がそのことを教えています。

 本来、私たちは父なる神の御心を知ることができない存在ですが、救い主イエスによってその計画を知ることができる者とされているとこの言葉は教えています。だからこそ、私たちに必要なことはいつでも、このイエスに心の目を向け、その御言葉に従うことであると言えるのです。なぜなら、そのことを通して、私たちも神の計画を知り、それを確信して生きることができるようにされるからです。


3.疲れた者、重荷を負う者

 このことを踏まえてイエスの「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」と言う言葉を考えると分かって来ることは、ここで「疲れた者、重荷を負う者」と呼ばれている人は自分の人生に対する神の計画を見失ってしまっている人たちだと言うことができます。自分の人生の意味を見失っている人々であるとも言えるのです。

 ファリサイ派の人々や律法学者たちは彼らに対して「神の掟に従え」とだけ教えました。そのようにして疲れている人、重荷を負っている人たちにさらに重荷を負わせて、彼らの苦しみを増すことがしかできなかったのです。しかし、イエスは違いました。なぜなら、イエスだけは父なる神の計画を知り、その神が愛を持って私たちの人生を導こうとされていることを知っておられたからです。

 そしてイエスは「疲れた人、重荷に負う」人々を御自身の元に招かれているのです。実はこのイエスの招きも当時の宗教指導者たちの招きとは対照的なものであったと言えます。なぜなら、当時の宗教指導者たちは自分たちの仲間に入ることができる人を厳格に選別し、その資格を持った人たちだけを受け入れようとしたからです。しかし、イエスが招きの対象はそうではありません。「疲れた人、重荷に負う」。イエスが招こうとされた人々は、むしろこの世の交わりからはじかれてしまうような資格のない人々でした。だから、イエスの周りには先ほども言ったように「罪人や徴税人」と呼ばれる人が集まって来たのです。イエスはどこにも行き場のないような人に、「わたしの元に来なさい」と招いてくださっているのです。


4.イエスの軛

 このようにイエスは自分の人生の意味を見失い、苦しみながらその人生を送る人々、つまり「疲れた人、重荷を負う人」に次のような言葉を語っています。

「わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎを得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(29~30節)。

 「わたしは柔和で謙遜な者」とはイエスが、ファリサイ派や律法学者のような当時の宗教指導者たちのように、いつでもマウントを取って人を見下して扱おうとする方ではないことを教えています。イエスは私たちと同じ立場に立たれ、また同じように苦しみを共にされる方であるからです。だから私たちは何も遠慮することなく、この方の招きに答えることができるのです。

 ここで「わたしの軛を負う」と言う言葉にも注意が必要です。この「軛」は当時、農作業に従事する家畜などに付けられる道具です。つまり、この言葉は「イエスの招きに答えるなら、もう何もしなくてもよい」と言う意味ではないこと表しています。相変わらず、私たちの人生にはしなくてはならない課題があります。そして、その課題を果たすために私たちは懸命に生きなければならないのです。しかし、ここでさらに大切なことはイエスがこの軛について、「わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」と教えてくださっていることです。

 先程も言いましたようにこの軛は農作業に従事する家畜に付けられる道具です。通常この軛は二匹の家畜、特に牛などにつけられると言われています。そのようにして二匹が力を合わせて作業に励むことができるようにするための道具なのです。その意味ではイエスの時代には大変によく使われていた道具であったと言えます。そして当時の農夫はこの軛を一頭は農作業に熟練した年老いた牛に付け、もう一方は、力は持っているが、農作業に関して何の経験も持たない若い牛に付けて引かせたというのです。つまり、この軛を使うことで何の知識も持ちえない若い牛も経験豊富な年老いた牛のリードで、余分な力を使うことなく、農作業を行うことができるようになるのです。

 ここでイエスが語る「わたしの軛」とは私たちの人生の課題をイエスが共に担って導いてくださるということを表しているのです。確かには私たちは「無学で愚かな」存在かも知れません。だから自分の人生にどのような神の計画があるかも分からずに誤解して苦しむことがあるかも知れません。しかし、それでも私たちは大丈夫なのです。なぜなら私たちの軛の一方が私たちの救い主イエスに付けられているからです。そしてそのイエスはいつも私たちを助け導いて、私たちに与えられた人生の課題を共に成し遂げて、やがて私たちが父なる神の元にまで至って、真の平安を受けるまで導いてくださる方なのです。私たちはそのイエスが今日も、この礼拝を通して、またこの礼拝の中で行われる聖餐式を通して招いてくださることに感謝し、喜んでその招きに答えて行きたいと思うのです。


…………… 祈り ……………

 天の父なる神様。

 疲れや重荷を抱えながら歩む私たちを、主イエスが招いてくださることを感謝いたします。自分の力や正しさに頼るのではなく、幼子のようにあなたを信頼する者としてください。主の与えてくださる「くびき」を喜んで負い、キリストにある真の安息を日ごとに味わわせてください。

 私たちの重荷を担ってくださる救い主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【聖書研究のための設問】

1.イエスは誰に、何の感謝をささげていますか(25節)。

2.神は誰に御国のことを示されましたか。なぜ神は「知恵ある者」ではなく「幼子たち」に真理を示されたのでしょうか(25節)。

3.「疲れた者、重荷を負う者」とはどのような人々でしょうか(28節)。

4.イエスは彼らにどのような招きを与えておられますか。

5.「くびき」とは何を意味していますか。イエスのくびきが「負いやすい」と言われるのはなぜでしょうか。

2026.7.5「わたしのもとに来なさい」