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2026.8.16「主よ、わたしを助けてください」YouTube

マタイによる福音書15章21~28節(新P.30)

21 イエスはそこをたち、ティルスとシドンの地方に行かれた。

22 すると、この地に生まれたカナンの女が出て来て、「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」と叫んだ。

23 しかし、イエスは何もお答えにならなかった。そこで、弟子たちが近寄って来て願った。「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので。」

24 イエスは、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」とお答えになった。

25 しかし、女は来て、イエスの前にひれ伏し、「主よ、どうかお助けください」と言った。26 イエスが、「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」とお答えになると、

27 女は言った。「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。」

28 そこで、イエスはお答えになった。「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように。」そのとき、娘の病気はいやされた。


1.ユダヤ人でなければ救われないのか

 皆さんもご存知のように聖書は大きく分けてイエス・キリストの登場以前に記された旧約聖書と、その登場以後に記された新約聖書の二つの書物で構成されています。キリスト教会はこの二つの聖書を神の言葉として受け入れ、大切にして来ました。しかし、現代でもユダヤ教と呼ばれる信仰を持つ人々は旧約聖書だけを受け入れ、イエスを神が遣わされた救い主と証する新約聖書を受け入れてはいません。一般の人々の考え方ではキリスト教はこのユダヤ教から分かれて生まれた新しい宗教だと考えられています。しかしキリスト教会自身はそのような理解をしてはいません。キリスト教会は現在、ユダヤ教と呼ばれている人々は、神が遣わされた真の救い主であるイエスを受け入れることなく、拒否する人たちによって生まれた新しい宗教だと考えているのです。

 新約聖書にはファリサイ派の人々や律法学者たちと言う人が登場し、イエスを救い主と認めることを拒否し、ついにはそのイエスを十字架にかけてしまったことが記されています。だからキリスト教会は彼らこそがこのユダヤ教の創始者たちと考えているのです。

 今日のお話が記されているマタイによる福音書15章の最初では「昔の人の言い伝え」と称して自分たちの教えを正当化しようとするファリサイ派や律法学者たちの主張をイエスは厳しく批判しています。彼らは人に見える外面だけを重視して、肝心の心の汚れを見逃し、また疎かにしているとイエスは非難したのです(1~20節)。

 このファリサイ派の人々はアブラハムの血を受け継ぐ者たちだけが、神に選ばれた民であり、その救いに与かる資格を持っていると主張しました。なぜなら、彼らの先祖であるアブラハムがその立派な信仰に対する報酬として「あなたの子孫を祝福する」と言う神からの約束を受けることができたと彼らは考えていたからです。その点で今日の物語に登場する「カナンの女」は彼らにとっては神に救われる資格を持たない者、神に見捨てられた者と考えられていました。今日の物語の中ではイエス自身も、「イスラエルの民、つまりユダヤ人だけが神に選ばれていて、その恵みに与かることがでるが、外国人はそうではない」と言う考えを持っていたかのような主張が語られています。そして結果的にはイエスはこのカナンの女性の信仰を見て、その考えを変えられたような話が記されています。それでは私たちはこのお話から何を学ぶことができるのでしょうか。


2.カナンの女の信仰

①イエスの元にやって来たカナンの女

 今日の物語は「ティルスとシドン地方」と呼ばれる場所がその舞台となっています。聖書の巻末の新約時代のパレスチナを表す地図を見ると、ティルスやシドンと呼ばれる町はイエスが活動の拠点とされたガリラヤ地方よりも北にあり、地中海に面した町々であることが分かります。現代の国名で言えばこれらの町はレバノンにあったと言えます。また、ここに登場する女性は「カナンの女」と呼ばれています。かつてエジプトを脱出したイスラエルの民が約束の地であるカナンに導かれたとき、その土地に先に定住していた人々が「カナン人」と呼ばれていました。そして歴史的に見ても彼らとイスラエルの民とは長い対立関係に置かれています。

 カナンの女はこの地方にたまたま訪れたイエスのうわさを耳にして、すぐにイエスの元にやって来ます。彼女がそうせざるを得なかったのはこのカナンの女の娘が「悪霊にひどく苦しめられている」(22節)からでした。当時の人々は人を苦しめる病気は悪霊の仕業によるものだと考える習慣がありました。ですからこのカナンの女も急に容態が悪くなった娘の病を心配してイエスの元にやって来たのだと考えられます。もちろんイエスは医者ではありませんが、イエスがイスラエルの各地で病の人々を癒されたという話を彼女は他人から聞いていたのでしょう。そのイエスがたまたま彼女の住む地方にやって来られたのですから、彼女にとっては見逃すことのできないチャンスであったと言えます。


②イエスの拒否とカナンの女の信仰

 しかし、この後の出来事は普段のイエスの癒しの奇跡の物語とは内容がかなり違っています。イエスは、熱心に「娘を助けてほしい」と願うカナンの女の声を無視するかのような態度を取られたからです。さらに、この光景を見たイエスの弟子たちも「この女を追い払ってください」とイエスに願い出る始末です。彼らにはこの女がイエスに迷惑をかけているとしか思えなかったのでしょう。するとイエスはこの女性に次のような言葉を語ります。

「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」(24節)。

 イエスは「自分は神に選ばれたイスラエルの民のために遣わされたのであって、外国人はその対象ではない」と彼女に答えます。これは普段のイエスの言葉とは思えない冷たい言葉です。しかし、カナンの女性はこの言葉を聞いても決して諦めることはしませんでした。それは彼女が「娘を助けることができるのはこのイエス以外にはおられない」と信じていたことを表しています。しかし、イエスの態度はそれでも変わりはしないのです。

「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」(26節)

 小犬は現代人にとっては愛らしいペットと考えられています。しかし聖書の世界ではそうではありません。犬は汚らわしい動物と考えられていたからです。これはまさにイエスから「お前たちは神に見捨てられいる」というような宣言をされたのと同じ言葉です。しかし、カナンの女性はその言葉に次のように答えたと言うのです。

「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」(27節)。

 カナンの女は自分が神に救われる資格を持っていないことを認めて、自らも汚らわしい「小犬」であることを認めています。しかし、彼女はそのような者でさえも、神は十分に救う力を持っておられるとイエスに語ったのです。これは「自分たちはアブラハムの血を受け継ぐ、神に選ばれた民だ」と自慢し、そうではない人々を見下した当時のユダヤ人たちの信仰とは対照的なものでした。彼女は「自分は神に愛される資格を持ちえない者である」ことを認め、「それでもそのような自分にも神は恵みを与えてくださる」と信じたからです。だからこそ、イエスはこのカナンの女の信仰を次のような言葉で評価されています。

「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」(28節)。

 そしてイエスがこの言葉を語ってすぐに、この女の娘の病気はいやされたと聖書は報告しています(29節)。


3.考えを変えるイエス

 このようにイエスはこのカナンの女の信仰を見て、御自身の態度を変化させたかのように今日の物語は私たちに教えています。それではなぜイエスは「イスラエルの失われた羊のために」遣わされたという自らの主張を変えて、外国人であるカナンの女の上にその御業を表されたのでしょうか。

 まず、第一に考えることができるのは「イスラエルの失われた羊」とはいったい誰のことかと言うことです。当時のユダヤ人たちはこれをアブラハムの血統をつぐ自分たちだと考えました。しかし、イエスの見方はそうではありませんでした。その理由は神が「アブラハムを祝福する」と言う約束を与えたのは彼が表した神に対する信仰によるものだったからです。神はいつも人の信仰を見て、その恵みを施されます。つまり、イエスにとってのイスラエルの民は、アブラハムの血を受け継ぐユダヤ人ではなく、そのアブラハムの信仰を受け継ぐ者たちのことだったの考えることができるのです。そのような意味で、イエスがこのカナンの女を救い導かれたのは、彼女がアブラハムの信仰を受け継ぐ、真のイスラエルの民であることを認められたからだと言えるのです。

 また、第二に考えることができることは、イエス自身がカナンの女の信仰を見て、そこに神の救いの計画があることを認め、それを受け入れようとしたからだとも考えることができます。カナンの女は自分には神に救われる資格がないことを認め、そでもそのような者さえ神は救ってくださるという信仰を言い表しました。彼女はそのようにしてアブラハムと同じ信仰を言い表すことができたのです。しかし、それでは彼女が告白した信仰はどこからやってきたものなのでしょうか。確かに目に見える理由としては、彼女の娘が不治の病に追い込まれて、イエスに助けを求めるしかないという絶体絶命の危機に追い込まれからだと考えることもできるでしょう。しかし、だからと言ってこのような立場に追い込まれた人が皆、彼女と同じ信仰を言い表すとは限りません。厳しい現実の中で自暴自棄となり、絶望する人も数多くいるからです。それでも彼女は、イエスの元を離れることがありませんでした。それは神が彼女にそのような信仰を与えてくださったからだと考えることができるのです。つまり、彼女がイエスの元を訪れたときにすでに神の御業は彼女の上に実現していたのです。彼女が外国人であっても彼女を救おうとされる神の計画がここで明らかになりました。そしてイエスはその神の計画を自らも悟り、その計画に従って彼女に救いの手を指し伸ばしのです。


4.神の御業を受け入れる信仰生活

 ご存知のようにイエスもまたその弟子たちもアブラハムの血を受け継ぐユダヤ人でした。ですから彼らもまた「神はアブラハムの血を受け継ぐイスラエルの民、つまりユダヤ人だけを祝福される」という教育を子どもの頃から受けて育てられて来たはずです。同じように私たちも子どもの頃から身に着けた習慣や価値観に支配されて生きています。私たちの住む川口市は外国人が人口の一割前後を占めるという特別な地域です。最近ではその外国人とのトラブルがさまざまなニュースで取り上げられ、話題にもなります。なぜ、このようなトラブルが起こるでしょうか。その背後には外国の人々が、私たち日本人が子どもの頃から身に着けた習慣や価値観と違ったものを持っているからではないでしょうか。聖書の時代のユダヤ人は現在の私たち以上の偏見を持って外国人を見ていたことが、今日の物語を通しても分かります。

 実は誕生してすぐのキリスト教会はこの外国人の問題で大論争が起こりました。ユダヤ人の習慣と価値観を捨てきれない人々は、「外国人がキリストを信じても、自分たちと同じようにユダヤ人の習慣や価値観を持たなければ救われない」と強く主張したのです。使徒言行録によれば、このことで使徒たちがエルサレムに集まり会議をすることとなったことが記されています。そして、この会議の席で使徒のリーダー格であるペトロは次のように発言したのです。

「人の心をお見通しになる神は、わたしたちに与えてくださったように異邦人にも聖霊を与えて、彼らをも受け入れられたことを証明なさったのです。また、彼らの心を信仰によって清め、わたしたちと彼らとの間に何の差別をもなさいませんでした」(15章8~9節)。

 異邦人に聖霊を遣わして彼らに信仰を与えたのは神の御業です。このことで神がすべての民族を受け入れられたことが分かったのですから、その神の御業を自分たちは受けれるべきだとペトロはここで主張したのです。おそらくペトロはここでかつてイエスがカナンの女の信仰を見て、その考えを変え、彼女の信仰を受け入れられたことを思い出していたはずです。だからペトロは大胆に、自分たちが古い習慣や価値観に拘ることなく、神の御業を受け入れるべきだと語ることができたのです。

 キリスト教会は新約聖書と旧約聖書を大切に信じています。それはここに記されている真の神の御業を信じ続けているからです。まことの神は私たち人間の思いを超えた偉大な御業を実現される方です。神はいつでも私たち人間の考えをはるかに超えた素晴らしい計画で私たちを導いてくださるのです。ですから、私たちは今日のイエスの物語の中でも示されているように、自分が持っている古い考えや習慣に拘ることなく、神の御業に目を向け、その御業を受け入れる信仰生活を送って行きたいと思うのです。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神さま。

 私たちは自分の力だけでは生きることができない弱い者です。しかし、主イエス・キリストが私たちを愛し、救うために来てくださったことを感謝します。

 カナンの女性のように、私たちも「主よ、助けてください」とあなたのもとへ行くことができますように。 また、私たちが身に着けて来た古い習慣や価値観から自由にされ、私たちの罪を赦し、新しい命を与えてくださるイエス様を信じることができますよう導いてください。

 主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。

【聖書研究のための設問】

1.この女性は、なぜイエスを「ダビデの子」と呼んだのでしょうか。

2.イエスがすぐ答えられなかったことには、どんな意味があると思いますか。

3.女性は、なぜあきらめずに願い続けることができたのでしょうか。

4.「パンくずでもいただけます」という言葉から、彼女の信仰について何を学べますか。

5.わたしたちが今まで身に着けて来た古い習慣や価値観に拘らず、神様の救いの計画を受け入れるために、私たちにはどのような信仰が求められていますか。

2026.8.16「主よ、わたしを助けてください」