2026.8.23「あなたはメシア、生ける神の子です」YouTube
マタイによる福音書16章13~20節(新P.31)
13 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。
14 弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」
15 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」
16 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。
17 すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。
18 わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
19 わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」
20 それから、イエスは、御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた。
1.様々な支配から私たちを自由にする信仰
子どものころ毎年、お正月になると私は父に連れられて千葉県の成田市にある成田山新勝寺という寺院に初詣に行きました。お正月の三箇日の間、成田山の参道は参拝客で埋め尽くされ、簡単に前に進むことも難しいような有様です。私の記憶によればこの参拝客の流れに向かって、文字の書かれた大きな横断幕を持って立っている一団がありました。その横断幕には「真の神はただ一人」と言ったような聖書からメッセージが書かれていたと思います。彼らはそのような言葉を初詣に向かう参拝客に示して、偶像礼拝を止めるように戒めていたのかも知れません。いずれにしろ、まだ幼い子どもだった私はその光景を楽しいお正月の雰囲気を壊すようなものとして記憶したことを思い出します。
今日の物語の舞台は「フィリポ・カイサリア地方」と記されています。フィリポは聖書に登場するヘロデ大王の息子の名前、そしてカイサルはローマ皇帝の名前です。この町はこの名前の通り、フィリポによって整備され、当時の最高権力者であるローマ皇帝にささげられた町と言われています。そのためこの町の中心にはローマ皇帝を祭る立派な神殿が建てられていました。またそのほかにも、ギリシャやローマの神々を祭る神殿も立てられていたと言われています。このように今日の物語の舞台は様々な偶像が乱立するような場所であったことが分かります。そしてイエスはこの町で、御自分の弟子たちに対してその信仰を問うたと今日の物語は伝えているのです。
誤解されがちですが「偶像」とは人の手で造られた神々の像だけを示す言葉ではありません。「偶像」とは私たちがまるで神のように、あるいは神に代わって頼りとし、また大切にしているものと言ってよいでしょう。ですから宗教や信仰という名前は付けられていなくても、現在の日本でも様々偶像が存在していると言えるのです。
この偶像を頼りとする者は、逆の意味でいつもその偶像に支配されなければなりません。ユダヤの領主だったフィリポは自分の権威を守るために、ローマ皇帝の力に頼ろうとしました。しかし、そのためにフィリポはローマ皇帝の心が自分から離れて行かないようにと必死となり、自分の作った町にまで皇帝の名前をつけて献上してその御機嫌を図る必要がありました。このように偶像は私たちの心を支配し、私たちから自由を奪い、私たちを恐怖に陥れるものでもあると言えます。だから聖書はその偶像礼拝を禁じているのです。そして真の神を信じるということは、その方に自分の人生をお任せすることであり、すべての偶像の支配から私たちを自由にするものだと言うことができるのです。
2.天国のカギをゆだねられたペトロ
①イエスは誰
イエスは様々な偶像が乱立するフィリポ・カイサリアの町で弟子たちに尋ねました。「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」。この「人の子」と言う言葉は本来は人間の子という意味を持っていたものでした。しかしイエスが活躍された時代にはその意味が変わり神から遣わされた救い主を表すような言葉になっていたのです。このようにイエスはご自分が神から遣わされた者であるという自覚を持っておられたことが分かります。そしてイエスはここでは弟子たちに「人々は自分についてどういっているのか」と質問したのです。弟子たちは答えました。
「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」(14節)。
ここに登場する人々は皆、旧約聖書や歴史の中で活動し、当時の人々から尊敬されていた者たちだったと言えます。ですからこの言葉はイエスも彼らと同じように人々の尊敬を集める存在とは認めていても、信仰の対象、つまり自分の人生をすべて委ねることができる方としては信じられていなかったことを表しています。そして次にイエスは続いてその弟子たちに「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」(15節)と問われたのです。
現在の日本人はよく「自分の家は代々、仏教徒だ」とか、「何々宗の檀家だ」と語ることがあります。しかし、その多くの人はその宗教に対する知識も、また関心もほとんど持ってはいません。聖書が語る信仰とはこのようなものではありません。確かにクリスチャンの家庭で育てられて、その信仰を受け継がれた方も多くおられるでしょう。しかし、そのような方々も教会で「あなたはどうなのか」、「あなたはイエスを自分の救い主として信じていますか」と問われて、その信仰を告白してクリスチャンになられたと思うのです。
このイエスの質問に対して弟子たちの一人、そのリーダー格であるペトロが答えました。
「あなたはメシア、生ける神の子です」(16節)。
メシアは「キリスト」と言うギリシャ語をヘブライ語で表す言葉です。また「生ける神の子」と言う言葉は偶像のような死んだ神々ではなく、今も生きて働いてくださる神の子と言う意味を持っています。つまり、この言葉はペトロがイエスを神から遣わされた救い主として信じているという信仰の告白となっていることが分かります。だからこそイエスはこの告白をしたペトロに次のように答えたのです。
②天国の鍵
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる。」(17~19節)。
イエスの言行を書き記した福音書の中で「教会」と言う言葉が出て来るのはここともう一か所、同じマタイの福音書の18章17節だけです。イエスのこの言葉によれば教会には天国の鍵が委ねられていることが分かります。ちなみにこの「鍵」と言う言葉は複数形となっています。建物の管理を任されている人はその建物の様々な部屋に入ることのできるたくさんの鍵を持っています。つまり、この言葉はペテロから始まったキリスト教会がこの地上において天国の管理人としての使命を神から与えられていると言うことを表しているのです。
以前、信仰問答の学びなどで取り上げたことがありますが、この「天国の鍵」とは教会に委ねられている福音の宣教でると考えることができます。なぜなら、この福音を信じるか信じないかで、その人が天国に入ることができるかどうかが分かれるからです。そしてこの福音はここに登場するペトロたち、イエスの弟子たちから始まって代々のキリスト教会によって引き継がれ、伝えられて来ました。私たちもその教会から福音を伝えられて、イエスへの信仰を告白することで、今教会の一員とされているのです。
3.不確かな信仰理解
このようにイエスは自分への信仰を言い表すことができたペトロを大変に評価されています。しかしその言葉に続いてイエスは「御自分がメシアであることをだれにも話さないように、と弟子たちに命じられた」(20節)と語られています。ペトロたちが伝える福音が天国の鍵であるとするならば、なぜ、今はそのことを「誰にも話さないように」とイエスは命じられているのでしょうか。
第一に考えられることは、「今はまだそのときではない」と言う理由です。聖書によれば弟子たちがイエスの福音を公に告げ知らせることができるようになるのは、イエスの十字架と復活、さらには昇天を経て、ペンテコステの日に彼らの上に聖霊が降った後からであったことが分かります。そのような意味でイエスはこの神の救いの計画に従って、「その時が来るまで待つように」とペトロたちに命じられたと考えることができます。
また、第二の理由は、ペトロは確かにこのときイエスに対して「あなたはメシア、生ける神の子です」と言う信仰を告白することができました。しかし、そのペトロは本当にこのとき自分が口にした信仰告白の内容を正しく理解していたか、どうかが問題となります。実はそうではなかったことを聖書はこの後すぐに伝えているからです。
イエスはご自分が救い主としての使命を果たすために、この世に遣わされ苦しみを受け、そののち十字架にかけられて殺されるためにやって来られたことを弟子たちに語りました。しかしペトロはこのことを聞くと「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」(16章22節)とイエスをいさめようとしたと言うのです。ペトロはおそらく、イエスが人の手にかかって殺されてしまう弱い救い主ではなく、神の栄光をもってすべての敵を屈服させるような強い方であると考えていたのでしょう。だから、彼はイエスの十字架の死の預言を決して受け入れることできなかったのです。
また、ペトロがこの考えを最後まで捨てることできなかったことは、イエスの十字架の出来事を通してもよく分かります。彼はイエスが逮捕される場面では、イエスを捨てて逃げ出ししまいます。それはこの出来事が彼の予想に反するものであったからです(26章56節)。またペトロはこの後も逮捕され、連れていかれるイエスの後を追って大祭司の庭まで行っています。おそらく、ペトロはイエスが隠された救い主としての本当の力を必ず、どこかで現わされると思っていたのかも知れません。ところペトロの期待はここでも裏切られてしまいます。そしてペトロはここでイエスを三度も「知らない」と否認する大失敗を犯してしまうのです。このような出来事から分かるように、ペトロはこのとき、イエスを「救い主」と信じていたとしても、その内容はまったく事実とは違う、自分の勝手な期待でしかなかったことが分かります。だからイエスはこのときペトロに「誰にも話してはならない」と命じられたと考えることができるのです。
4.確かな信仰の根拠
このように正しい信仰告白を口にしたペトロでしたが、彼の信仰理解はまだまだ不十分で不完全なものであったことが分かります。しかし、それならなぜ、イエスはそのようなペトロにあえて「天国の鍵を授ける」とまで言ってくださったのでしょうか。私たちは最後に私たちの信仰の確かさということについて少し考えて見たいと思います。今申しましたように確かにペトロの信仰理解は未熟というよりも誤解に満ちたものでしかありませんでした。しかし、イエスはこのとき信仰を告白したペトロに次のように語られているのです。
「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」(17節)。
この言葉はペトロの信仰が彼の考えから出てきたものではなく、天の父なる神から与えられたものだと言うことを表しています。同じように使徒パウロはコリントの信徒への手紙一で「聖霊によらなければ、だれも「イエスは主である」とは言えないのです」(12章3節)と語っています。ですから私たちがイエスを信じて、洗礼を受けたることができるのはすべて神の御業によるものだと言えるのです。教会で洗礼を受ける人は聖書を徹底的に研究して、また信仰的な修行を積んで、自分が完璧な信仰者になったから、そうしたのではありません。私たちが「イエスを救い主」とペトロと同じように告白できるのは神様の働きかけであり、その点で私たちの信仰は神様が与えてくださった確かな信仰であると言うことができるのです。
もちろん、私たちの信仰理解はまだ不十分なものでしかありません。ペトロが不十分な信仰理解の故に、この後何度も失敗を犯したように、私たちも信仰生活の中で様々な失敗を犯します。しかし、イエスはそれでも私たちを見捨てることは決してありません。ペトロがそのような失敗にも関わらず、イエスの弟子として生きることができたように、信仰を告白した私たちをイエスは最後まで導いてくださるのです。 今日のイエスの言葉のように私たちの教会には天国の鍵が授けられています。しかし、それはこの地上の教会が間違いを犯さない、完璧な場所であるからではありません。またそこに集まる私たちの信仰理解が完璧なものであると言う訳でもありません。教会がその使命を十分に担うことができるのは、イエスがこの教会の頭として私たちを導き、最後まで守ってくださるからであることを私たちは今日のこの物語を通しても覚えたいと思うのです。
…………… 祈祷 ……………
天の父なる神さま。
今日、御言葉を通して、主イエスが私たちの救い主であることを教えてくださり、感謝いたします。また、ペトロと共に、「あなたはメシア、生ける神の子です」と信仰を告白する者としてくださったことも感謝いたします。 これからも私たちが主イエスを信じ、御言葉に従って歩むことができますように。また、私たちの教会が天国の鍵としての福音宣教の使命を果たし続けることができるよう導いてください。
主イエス・キリストのお名前によって祈ります。アーメン。
【聖書研究のための設問】
1.人々のイエス理解とペトロの告白は何が違うでしょうか。
2.なぜイエスは「あなたがたは」と弟子たち自身に問いかけられたのでしょうか。
3.ペトロの信仰が神からによるとはどういう意味でしょうか。
4.「この岩」とは何を指していると考えますか。
5.今日の教会はどのように「天の国の鍵」を用いているでしょうか。
6.あなた自身はイエスを誰だと告白しますか。