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2026.8.9「古い人から新しい人へ」YouTube

コロサイの信徒への手紙3章1~10節(新P.371)

1 さて、あなたがたは、キリストと共に復活させられたのですから、上にあるものを求めなさい。そこでは、キリストが神の右の座に着いておられます。

2 上にあるものに心を留め、地上のものに心を引かれないようにしなさい。

3 あなたがたは死んだのであって、あなたがたの命は、キリストと共に神の内に隠されているのです。

4 あなたがたの命であるキリストが現れるとき、あなたがたも、キリストと共に栄光に包まれて現れるでしょう。

5 だから、地上的なもの、すなわち、みだらな行い、不潔な行い、情欲、悪い欲望、および貪欲を捨て去りなさい。貪欲は偶像礼拝にほかならない。

6 これらのことのゆえに、神の怒りは不従順な者たちに下ります。

7 あなたがたも、以前このようなことの中にいたときには、それに従って歩んでいました。

8 今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。

9 互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、10 造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。


ハイデルベルク信仰問答書

問89 古い人の死滅とは何ですか。

答 心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる、ということです。

問90 新しい人の復活とは何ですか。

答 キリストによって心から神を喜び、また神の御旨に従ったあらゆる善い行いに心を打ち込んで生きる、ということです。


1.何が変わるのか

 20世紀の心理学を代表する学者でフロイトやアドラーと並んで有名なユングと言う人物がいます。ある日本人が心理療法士になるべく、ユングの後継者たちを育てるために作られたスイスにある研究所に留学したときのお話です。そこには世界の各地からユング心理学を学ぶためにさまざまな人々が集まっていました。ところが彼はその研究所に入所した途端、そこでの複雑な人間関係の問題を経験して驚きます。とても彼らが将来優秀な心理療法士になるとは思えません。「世界の各地からユング心理学を学びにわざわざ集まった人たちもこの程度の人間でしかないのか」。そう考えるとこれからユング心理学を熱心に学ぼうと熱意さえ失われて行くような気がしました。結局、彼はその悩みを自分のスパーバイザーに相談することになります。するとこんな答えがそのスパーバイザーから返って来たと言うのです。「君は知らないから言うが。彼らはここに入ったときに比べたら、ずっとまともになっているんだ…」。

 イエスを自分の救い主と告白して、洗礼を受けてから、自分はどれだけ信仰者として成長したのだろうか…。どうも自分は信仰者として立派に成長しているという実感を持ってない…。これで自分は本当に信仰者として大丈夫だと言えるのだろうか…。私たちは信仰生活を続ける中でそんな心配を抱くことがあります。私たちは今ハイデルベルク信仰問答の学びの第三部に入り、私たちが信仰者としてどのように生きなければならないのかについて聖書の言葉から学ぼうとしています。そして、その学びの最初のところで私たちがキリストを信じることによって何が変わったのかについて考えています。そこで信仰問答は私たちがキリストを信じることで、まことの悔い改めと回心が起こることを教えているのです(問88)。

 私たちは「悔い改め」とか「回心」と言う言葉を聞くと、今まで自分が犯して来た過ちを認めて、新しく人生を出直す決心すること…と言ったことを考えるかも知れません。しかし、信仰問答は真の悔い改めと回心は「古い人の死滅」、「そして新しい人の復活」と言う私たちの命に起こった重大な変化を表していると教えています。それでは、この古い人の死滅と新しい人の復活とはいったいどのようなことなのでしょうか。私たちは本当にそのような経験を自分の信仰生活を通してしているのでしょうか。


2.古い人の死滅とは何か

 まずハイデルベルク信仰問答の問89は「古い人の死滅」を「心から罪を嘆き、またそれをますます憎み避けるようになる、ということです」と教えています。ここで使われている「古い人」とは神に救われる以前の私たちが持っていた性質を意味しています。その特徴は第一に「自分中心の生き方」です。私たちはよく「本音」と「建て前」と言う言葉を口にします。「円滑な人間関係を維持するためには本音を隠して、建て前を大切にするように」と教えられることがあるからです。しかし、そのようにして自分の本音を隠しながら建て前だけで生きていくと、私たちの心にいつしか障害が生まれてしまう恐れがあります。この点で「建て前」とは自分中心の「本音」とは全く対立的なものと考えられがちです。しかし実は人が「建て前」を守るのは、自分が人間関係の中で起こる争いに巻き込まれて苦しみたくないという理由からだと言えます。つまり、そう考えてみるとこの「建て前」もまた「自己中心」の心から生まれていると言うことができます。

 イエスは私たちに「思い悩む」ことを止めて「何よりもまず、神の国と神の義を求めなさい」と教えてくださっています(33節)。しかし、私たちを愛し守ってくださる神を信じることができない人間は、いつも自分のことを心配することで人生の時間を費やす他ありません。このように古い人の第二の特徴は「神よりもまず自分の思いを優先させる」ところに現れます。

 また、古い人の第三の特徴はもっと深刻で「神の御心に逆らおう」とするところに現れます。イエスの語ってくださった放蕩息子のたとえ(ルカ15章11~32節)のお話に登場する弟息子の最大の関心は「父のもとから離れる」と言うことでした。なぜなら彼は自分が生きていけるのは父の保護があってのことだということに気づかず、むしろ自分の自由をその父が奪っていると考えたからです。そのように私たちはかつて神を自分の自由を奪い、自分をむしろ不幸にしている存在として憎む傾向を持っていたのです。

 教会に通っている一人の青年がある日、その教会の牧師にこう語りました。「先生、わたしはがんばってやっと自分に死ぬことができました」。するとその牧師はその青年に「それはすばらしい。おめでとう。ところで君は今「自分に死ぬことができた」と言ったけれど、それなら今生きている君は誰なの…」。

 私たちが勘違いしてはならないのは「古い自分の死滅」とは自分の頑張りで成し遂げられるようなものではないということです。何度も語るように、私たちが自分の悲惨な罪人の姿に気づき、そこから救われたいと願うことできたのは神の恵みであり、キリストが天から送ってくださる聖霊が私たちの心の内で働いてくださったからです。そして私たちはこの聖霊の働きよって古い人の死滅を経験することができるのです。

 この信仰問答に使われている「死滅absterbung」と言う言葉のドイツ語の意味は「徐々に枯れて死んで行く」と言うものだそうです。つまり、私たちは信仰生活の中で天からイエスが遣わしてくださる聖霊の働によって「古い人の死滅」を私たちは少しづつ、この世の信仰生活が続く限り体験することができると言うことを表しているのです。


3.新しい人の復活

 古い自分が死んだら、いったい、今生きているのは誰なのでしょうか。今日のテキストとして選ばれているコロサイの信徒への手紙の中でパウロは「あなたがたの命であるキリストが現れる」(4節)と語っています。そして信仰問答はこのことを「新しい人の復活」と言う言葉で表現し、次のように説明しているのです。

「キリストによって心から神を喜び、また神の御旨に従ったあらゆる善い行いに心を打ち込んで生きる、ということです。」

 今まで神を憎み、神の御心に反して生きてきた古い自分が死滅して、「心から神を喜び、また神の御旨に従った」生き方をするようにされると言うのです。しかも信仰問答はこれらすべてのことが「キリストによって」つまり、先ほどの古い人の死滅のところでも確認したように、天におられるキリストが私たちのために遣わしてくださる聖霊によってこの「新しい人の復活」も起こると説明しているのです。

 そう考えるとこの「古い人の死滅」と「新しい人の復活」はコインの裏表のように、信じる私たちの内で働く聖霊の御業を表していることが分かるのです。そして、このような信仰問答の言葉から考えると、私たちが今、神を信じ、その神を喜び、その神に心から従いたいと願うことができるのは、確かに私たちの古い人が死滅し、また新しい人が復活しているからだと言うことができるのです。さらに私たちが今日も喜んでこの礼拝に出席し、神を賛美することができるのも、私たちの内に聖霊が働いてくださっている確かな証拠であると言えるのです。このようにパウロが語った「キリストが現れること」は私たちの信仰生活を通して日々実現しているのです。


4.私たちに与えられている希望

 このお話の最初に申しましたように「信じていても、どうも自分が変わったという実感が持てない」と私たちは感じることがあります。そして「自分はまだ信仰者として頑張りが足りないのだろうか…」。そんな風に思ってしまうことがあるのです。しかし、もし私たちの「古い人の死滅」と「新しい人の復活」が自分のがんばりによるものだと考えてしまったら、私たちは結局最後には自分の力に絶望してしまうしかありません。なぜなら、このすべてはキリストの御業によるもの、キリストが私たちに遣わしてくださる聖霊の働によってだけ私たちの上に実現されるものだからです。だから、私たちはたとえ自分の力に絶望したとしても、結して希望を失うことがないのです。なぜなら、私たちの希望の根拠は、私たちにではなくキリストに上にいつも置かれているからです。

 私が読んでいるリビングライフ誌(聖書を毎日読むために作られたテキスト)は最近、旧約聖書のエゼキエル書を読むようにと編集されています。そして昨日の土曜日に読んだ箇所はエゼキエル書の37章の部分でした。ここで預言者エゼキエルは神によって、数多くの人骨でうめ尽くされる谷に連れて行かれます。それは戦場で死んだ兵士たちの遺体が野ざらしにされ、そのまま骨の山となったものなのでしょうか。

 そこに導かれたエゼキエルは神から「人の子よ、これらの骨は生き返ることができるか」と問われます。エゼキエルの目にはそれは全く不可能なことだと思えます。ですから彼は「主なる神よ、あなたのみがご存じです」(3節)としか答えることができません。すると神はそのエゼキエルに向かってこう語り掛けます。

「これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け」(4節)。

 命のない骨に語り掛けても、それはどうにもならないはずです。しかし、エゼキエルが神の命令に従いその骨たちに預言すると、次の瞬間、骨と骨とがつながり、さらにその骨に筋と肉がつき、それを皮膚でおおてついには人の形となったと言うのです。そして最後にはエゼキエルを通して語られる預言によってその人に命の息が吹き込まれ、彼らは生き返ったというのです。

 私たちの信仰生活が自分たちの努力によって成り立つとしたら、私たちには希望がありません。しかし、私たちに働くのは神の力なのです。エゼキエルの見せられた幻はそのことを私たちによく教えています。命のない骨に神の預言が語り掛けられるとき、その骨は生きた人間と変わりました。同じように私たちが私たちを新しく復活させてくださる神に希望を置き、その預言の言葉である聖書のみ言葉に日々耳を傾け続けるなら、聖霊は私たちをも甦らせ、最後にはキリストに似る者としてくださることを今日も再び覚えたいと思います。


…………… 祈祷 ……………

 天の父なる神さま。

 今日、御言葉を通して、私たちの古い人を脱ぎ捨て、キリストにあって新しい人として生きるように招いてくださったことを感謝いたします。

 私たちは、自分中心に考えたり、愛することよりも自分の思いを優先したりする弱さがあります。どうか私たちの罪を示し、心から悔い改める者としてください。そして、十字架によって罪を赦してくださったイエス・キリストの恵みによって、神に愛されている喜びの中を歩ませてください。

 聖霊によって私たちの心を新しくし、神を愛し、隣人を愛し、御心に従った良い行いを喜んで行う者へと変えてください。日々の生活の中で、古い人に戻るのではなく、キリストに結ばれた新しい命に生きることができますように御言葉をもって私たちをお導きください。この一週間も、私たちを赦し、支え、導いてくださる主と共に歩ませてください。

 主イエス・キリストのお名前によってお祈りいたします。アーメン。

【学びのための設問】

1.「古い人」とは誰のことでしょうか。また、それはどのような心や生き方を表していますか。

2.問89では、古い人が死ぬとはどの三つのことだと教えていますか。

3.問90によれば、新しい人は何を喜ぶようになるのでしょうか。

4.神さまの御心に従うことを「義務」ではなく「喜び」として行うとは、どういう意味でしょうか。

5.クリスチャンになっても罪との戦いが続くのはなぜだと思いますか。

6.毎日の生活の中で、「古い人を脱ぎ、新しい人を着る」ためにできることは何でしょうか。

2026.8.9「古い人から新しい人へ」