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2026.9.13「私たちを導く神の戒め」

エフェソの信徒への手紙2章8~10節(新P.352)

8 事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。

9 行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。

10 なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです


ハイデルベルク信仰問答書

問91 しかし、善い行いとはどのようなものですか。

答 ただまことの信仰から、神の律法に従い、この方の栄光のために為されるものだけであって、わたしたちがよいと思うことや人間の定めに基づくものではありません。

問92 主の律法とはどのようなものですか。

答 神はこれらのすべての言葉を告げられた…(出エジプト20章1~17節、申命5章~21節参照)。

問93 これらの戒めはどのように分かれていますか。

答 二枚の板に分かれています。その第一は、四つの戒めにおいて、わたしたちが神に対してどのようにふるまうべきかを教え、第二は、六つの戒めにおいて、わたしたちが自分の隣人に対してどのような義務を負っているかを教えています。


1.正しい聖書の理解

 私たちがこれまで学んで来たハイデルベルク信仰問答は16世紀、つまり今から500年ほど前に作られた書物です。当時、主に現在の西ヨーロッパでは人々の信仰をカトリック教会が支配していました。宗教改革はこのカトリック教会の教えが聖書のメッセージから大きく逸脱していることを指摘し、教会を聖書の教えに戻すために起こった運動だと言えます。当初、宗教改革者たちはカトリック教会と別れて新しい教会を作ろうとしたのではなく、既に存在するカトリック教会を改革することを目指しました。しかし、当時のカトリック教会は宗教改革者たちの意見を受け入れることなく、彼らを「異端者」として教会から排除しようとしました。そのため改革者たちは新しい教会、プロテスタント教会を作ることになったのです。

 しかし、新しく生まれたプロテスタント教会の中にもさまざまな意見の相違がありました。そしてこの意見の相違のために争いも生じることになりました。特にこのハイデルベルク信仰問答が作られた地域では宗教改革者ルターの見解を受け継ぐルター派と私たちの教会のルーツと考えてよい宗教改革者カルヴァンの見解を受け継ぐ改革派との間で厳しい意見の対立が起こりました。でえすから、このハイデルベルク信仰問答はこのような対立を解決し、プロテスタント教会が一つになれるようにとの願いによって作られた文章であると言われています。

 私たちキリスト教会の信仰は神が与えてくださった聖書の教えに基づいていると言えます。それなのになぜ、キリスト教会にはカトリックやプロテスタント、または他にも大小様々な教派が存在するのでしょうか。そこには歴史的な様々な理由が存在していると言えます。ただ、その中で最も大きな理由は聖書の読み方、つまりその理解の仕方が違ってしまっていると言うところにあると言えます。この世界はいつも新しい時代のニーズに合った新しい価値観が求められています。しかし、キリスト教会の流れはそうではありません。キリスト教会は私たちの救い主イエス・キリストとその弟子たちが教え、また信じた信仰に戻ることが大切だと考えているからです。今から500年ほど前に起こった宗教改革はそのための運動であったと言えます。また、このハイデルベルク信仰問答が作られた目的もそれと同じであると言えるのです。なぜなら私たちにとっての確かな信仰とは、イエス・キリストとその弟子たちが教え、また信じた信仰であると言えるからです。

 日本ではかつてある新興宗教団体が「ハルマゲドン」と言う言葉を使って重大な犯罪を犯し、多くの人々の命を奪うという出来事が起こりました。この「ハルマゲドン」と言う言葉は聖書の教える終末思想、世の終わりに関する内容を表す言葉であると言えます。つまり、彼らはこの聖書の言葉を利用して、自分たちが作りだした教えを正当化しようとしたのです。今でも、この世界では残念ながら聖書の言葉を使って人々を混乱に陥れようとする人々がいます。現代人の多くが宗教を「恐ろしい」と考えたり、できるだけ関わらないようにしなければならないと考えるのは、このような誤った聖書についての教えが影響しているとも言えます。ですから私たちキリスト教会の使命は、人々が正しい聖書の理解を学び、それを信じることができるようにすることだとも言えるのです。


2.善い行いとは何か

①仲間を赦せない家来

 このハイデルベルク信仰問答の学びは問86から第三部の「感謝について」と言う部分に入っています。あるときイエス・キリストは「仲間を赦さなかった家来」についてのたとえ話を語っておられます(マタイ18章21~35節)。このお話に登場する家来は主人の財産を横領してしまう罪を犯します。この家来が主人から騙し取った金額は一万タラントで、パソコンでAIに尋ねると「現代の金額で数兆円」と言う答えが返ってきました。まさにどこかの国の国家予算にも相当するような巨大な借金です。

 そこで罪を犯した家来は主人に必死になって赦しを乞います。すると、驚くことに主人はこの家来を「憐れに思って」、彼を赦し、その謝金を帳消してやったと言うのです。聖書の解説者たちによれば、これは私たち罪人の負っている神に対する借金、その罪の価がどんなに巨額であるかを教えていると言われています。つまり、私たちもこの家来と同じように、自分では返済することの出来ない巨額な借金を抱えて、その借金を神から赦していただいた者たちだと言うのです。

 ところがイエスのお話は、こんなに素晴らしい赦しをいただいた家来が、すぐに自分に百デナリオン(労働者の百日分の給与にあたる額)の借金をしている仲間を赦すことができなかったことを語ります。自分は赦されてもこの家来は自分の友人を赦すことができずに彼を牢屋に入れてしまったのです。その理由はこの家来は主人が自分の抱える借金を帳消しにしてくれたという事実を知っていましたが、どうして主人が自分を赦してくれたのか、その主人の憐れみ深い心を理解することができなかったのです。このお話から分かることは、神によって私たちの罪が赦されたという事実だけではなく、その私たちの罪を赦してくださった神の心を理解する必要があると言うことだと言うのです。

 イエス・キリストによって救われた私たちは、そのイエス・キリストの命に代えてまで私たちの罪を赦してくださった神の御心を理解する必要があります。そしてその神の御心を理解することができた者の自然の反応はこの信仰問答が教えるように「善き行い」、それは神の御心に沿った生き方を私たちがするということに繋がって行くと言えるのです。


②神が望んでおられることをする

 もちろん「善き行い」に励めと言っても、私たち自身が勝手に考えたものであれば、それは神を喜ばせるものには決してなり得ません。ですから信仰問答は次のように教えています。

「ただまことの信仰から、神の律法に従い、この方の栄光のために為されるものだけであって、わたしたちがよいと思うことや人間の定めに基づくものではありません。」

 聖書が教える「善い行い」は誰かに強制されたからするものではありません。私たちの罪をイエス・キリストによって赦してくださった神の御心を知り、その神に感謝をしたいという自発的な信仰によって行われるものであると言えるのです。また、この「善い行い」は神の栄光をあらわすという目的のめに行なわれるものです。ですから、そのためには何よりも神が私たちに何を望んでおられるかを知ることが大切です。そのために神は聖書の中で、私たちに望んでおられることを示してくださっています。それが「神の律法」、特にこれから詳しく学んで行く聖書の教える十戒であると言えるのです。


3.十戒は何を教えるか

①自分の罪を知る

 実は今から50年近前になりますが、私が初めてキリスト教会の教理を学んだのは茨城県にあるルテール教会でした。私は求道者のときにその教会で宗教改革者ルターが記した小教理問答書と言う書物を徹底的に学ばされたのです。このルターの小教理問答書では最初に神の律法である十戒を学びます。私はこの小教理問答書によって聖書が教える罪とは何かということをコマ細かく学びました。そうすると、どうなってでしょうのでしょうか…。私はそれまで自分は比較的に善良な人間だと思っていたのですが、その確信が徹底的に破壊されてしまったのです。自分は生きているだけで神に罪を犯し続けている存在だと言うことを知り、絶望に追い込まれしまいました。私は教会に希望を求めてやって来たのに、そこで徹底的な絶望に追い込まれてしまったのです。しかし、だからこそ私はその十戒の次に学んだ使徒信条の文章によって、イエス・キリストが自分の罪のために十字架に付いてくださったということを心から理解することがでるようになったのです。聖書が教える神の律法、十戒には大きく三つの役割があると言われています。その第一は、私が最初にルーテル教会で学んだように「自分が罪人である」と言うことを知ることです。これを知らなければ私たちはイエス・キリストが何のためにこの世に来てくださったかを知ることができません。また、そのキリストが誰か他の人のためではなく、私の罪のために十字架に付いてくださったと言うことを知ることができないのです。このハイデルベルク信仰問答では問3から問5の部分で私たちが神の律法を守ることができない罪人であることを教えています。


②社会の秩序を維持する

 先日、Youtubeを見て言いて興味深いお話を耳にしました。そこには外国にルーツを持つ何人かのコメディアンが出演していて、それぞれの持つ信仰についての話をしていました。イスラム教の家族の中で生まれたコメディアンは「子どものときから神様を信じないと地獄に行くと育てられた」と語ります。そして「地獄に行きたくなければ、神様の喜ばれることをしなさい」と教えられたと言うのです。また「神への信仰が無くなってしまえば、人間は無秩序となり、社会は大混乱を来たす」とも教えられたとも言っていました。その上で彼は続けてこう語るのです。「日本で生活していて、日本はイスラム教など信じていないのに、秩序があって安心できる国だと思った」と考えるようになり、「だから今はイスラム教を信じていない」とまで言うのです。

 確かに神の律法である十戒には「社会の秩序を維持する」と言う役割があるとキリスト教会でも教えています。それなのになぜ聖書の神を信じないまた、その律法知らない日本人が秩序を持って社会生活を送ることができるのでしょうか。それは神に造られた私たち人間の心に、神の律法が生まれつき刻み込まれているからだと聖書は教えています(ローマ2章12~16節)。もちろん、私たちの心に刻まれた律法は、決して変わることのない聖書の言葉とは違います。それは不確かであり、簡単に変わってしまいやすいものなのです。またその上で、私たちが社会の秩序に従うのは自分たちのためであって、決して神のために従うのではありません。この点で社会秩序は聖書の教える十戒とは全く違う性格を持っていると言えます。


➂救われた私たちだからこそ

 さてこれから私たちが詳しく学ぶ十戒は信仰問答が語るように、私たちを救ってくださった神に私たちが感謝をささげるための基準のようなものだと言えます。何度も言うように、神に救われるために私たちは十戒を守るのではありません。この点で、イエスが活動していた時代のユダヤ人の宗教家たちはこの律法の役割を大きく誤解して、律法主義の誤りに陥ってしまいました。彼らの律法主義か誤りであることは、旧約聖書が語る十戒の序言の言葉を読んでも明らかであると言えます。

「わたしは主、あなたの神、あなたをエジプトの国、奴隷の家から導き出した神である」(出エジプト記20章2節)。

 十戒はエジプトの奴隷状態から神によって救い出されたイスラエルの民に与えられたものです。神は救われたイスラエルの民がどのように生きるべきかをこの十戒を通して教えてくださったのです。そして、今日のテキストとして選んだエフェソの信徒への手紙も次のように語られています。

「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。なぜなら、わたしたちは神に造られたものであり、しかも、神が前もって準備してくださった善い業のために、キリスト・イエスにおいて造られたからです。わたしたちは、その善い業を行って歩むのです」。

 私たちはイエス・キリストによって救われ、罪を赦された者たちです。だからこそ私たちは自分たちを救ってくださった神の御心である十戒を大切にするのです。そして私たちはこのことをまず覚えながらこれから十戒を学んで行きたいと思います。


…………… 祈り ……………

 恵み深い天の父なる神様。

 私たちの良い行いによってではなく、イエス・キリストによる恵みによって救ってくださることを感謝いたします。どうか、救われた喜びと感謝をもって、あなたの御言葉に従わせてください。あなたを愛し、隣人を愛し、日々の小さな行いを通して、あなたの栄光を表すことができますように。私たちの力ではなく、聖霊によって導いてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【あなたも考えて見ましょう】

1.ハイデルベルク信仰問答の問91では、「良い行い」とはどのようなものだと教えていますか?

2.「良い行いによって救われる」のと、「救われた者が良い行いをする」のでは、どこが違うでしょうか?

3.私たちは、なぜ神の律法である「十戒」を守るのでしょうか?

4.問93では、十戒を二つの部分に分けています。それは何でしょうか?

5.「神の栄光のために良い行いをする」とは、私たちの日常生活ではどのようなことでしょうか?

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