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  4. 9月6日「兄弟を得るために」

2026.9.6「兄弟を得るために」YouTube

マタイによる福音書18章15~20節(新P.35)

15 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。

16 聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。

17 それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。

18 はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる。

19 また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。

20 二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」


1.罪を犯した相手を赦すことは難しい

 先日、最近作られた韓国のコメディー映画をネットで見ました。敵対するやくざに突然襲われて、命からがら逃亡するやくざが主人公のお話でした。彼は追手から逃れるために夜遅く、一軒の荒れ果てた教会に潜り込みます。彼がそこで一夜を過ごすと、そこに現れるのがその教会の年老いた長老たちらしき三人組の老人です。彼らは「私たちは夕べ、夢の中に現れたイエスさまから『明日、お前たちの教会に新しい牧師を送る』と言われたからここにやって来た」と語ります。そしてその主人公のやくざに向かって「あなたが新しい牧師ですね」と言って喜ぶのです。そこで映画の主人公はしばらく自分の身を隠すためにその教会の牧師のふりをすることになりました。彼の本業はやくざですから、彼は今まで聖書など読んだことがありません。そこで、彼は日曜日の礼拝のためにスマフォで他の教会の牧師の説教を聞いて、それを丸暗記して教会の信徒たちに語ろうとします。しかし、自分の本性を隠すことはなかなか難しいものです。彼のお話がちょうどイスカリオテのユダの裏切りに至ると急に「こんな人物はとっ捕まえて、八つ裂きにしても飽き足らない」と腹を立て始めます。しかし、火がついたように自分の怒りを露わにする彼でしたが、その後に「それでも主イエスは人の罪を赦すように教えられた」と言うことを思い出します。そして「実際に主は自分を敵に売った人々をも赦された…。しかしそんなこと本当に自分たち人間にできるのだろうか…」と言うのです。今まで人にやられたら、それを必ず何倍にもして返すことが当たり前のやくざの世界で生きて来た主人公です。だから彼には「敵を赦せ」と言うイエスの言葉の意味が理解できずに、彼の説教はそのまま未完成で終わってしまったのです。

 確かにこの映画の主人公でなくても、主イエスの語られた赦しの教えを理解することは難しいのかも知れません。私たちはいつも人の罪を赦すことができない自分に気づいて、呆れてしまうか。また、それとも少しばかり人の罪を赦すことができたと思うと、有頂天になり「自分はすごい」とう自慢したくなってしまう者たちだからです。

 今日の箇所は「兄弟があなたに対して罪を犯したなら(どうするのか…)」と言うイエスの言葉で始まっています。私たちは自分に対して罪を犯して「八つ裂きにしても飽き足らない」と感じるその相手にどう対応できるのでしょうか。そのことについて私たちは今日の聖書に記されたイエスの言葉から学びたいと思うのです。


2.兄弟を得たことになる

 自分に罪を犯した相手をどのように取り扱うべきか。そのような場合、私たちの多くはまず、自分の正しさを論証し、また相手が自分の犯した過ちを認めるようにと働きかけるはずです。そして、もしそれでも解決がつかないならば、裁判のような場に訴えるということにもなるかもしれません。いずれにしろ、そこでの目的は相手に自分の誤りを認めさせることであり、さらには自分自身の正しいを証明することであると言えます。しかし、今日の聖書の箇所で語られているイエスの教えの目的はそれとは全く違っています。それは今日の聖書の箇所の直前に記されているイエスのたとえ話を読むと分かります。なぜなら、ここでイエスはいなくなった一匹の羊を必死で探す羊飼いのお話をしながら、神が私たちをこの一匹の羊のように求めておられると教えたからです。イエスはこのお話の中で私たちが一人でも滅びることなく神の元に返ることを神が願っておられると教えてくださったのです(マタイ18章10~14節)。

 そして今日の箇所のイエスの言葉は、この神の御心を知る、私たちはどうすべきなのかを教えるためのものであると言ってよいのです。つまり、この箇所は自分に罪を犯した人をどのように罰するかと言うことを教えているのではありません。むしろ、迷い出た一匹の羊のように「滅び」の危機に置かれている兄弟をどのように神の元に連れ戻すべきなのかを教えているのです。

 今日の箇所には「兄弟を得たことになる」(15節)と言うイエスの言葉が記されています。この言葉は単に壊れた人間関係が回復されたと言うことを表しているのではありません。この言葉は罪を犯した兄弟が、神の元に立ち返ることができたこと、そして神との関係が回復されたことを表していると言ってよいのです。


3.客観性が求められる裁き

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい」(15節)とイエスは教えます。ネット社会の現代では誰かの犯した罪が明らかになると、そのニュースがあっと言う間に日本中、いえ世界中に広まってしまいます。その結果として、罪を犯したと言われている当事者たちは無数の人々から批判を受けることになり、時にはその結果として自分の命を絶つという悲劇まで起こってしまいます。

 イエスはここで、相手を得るためには、その人の犯した罪を自分以外の他の人に簡単に漏らすようなことはあってはならないと教えています。もしそうしなければ、問題はさらに大きくなってしまい、解決の糸口さえつかめなくなってしまうからです。もちろん自分だけが黙って我慢すればよいと言うことでもありません。なぜなら、それでは罪を犯した兄弟が悔い改めて神の元に戻る機会を奪ってしまうからです。だから、「行って二人だけのところで忠告しなさい」とイエスは言われているのです。

 そして続けてイエスは次のように語っています。「聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである」(16節)。これは旧約聖書が定める裁判に関する規定に基づいた言葉だと言えます(申命記19章15節)。公正な裁きにおいては客観的な事実が重んじられる必要があります。だからそのためにはその問題に関わる人以外の証人を呼んで、彼らから公正な判断を仰ぐ必要があるのです。

 最近では教会でもハラスメントと言う問題が重要視されるようになりました。そして実際に教会で起こったハラスメントのような問題を調べて見ると、加害者と呼ばれる人々の多くは「相手のためによいと思ってそれをした」と語っていることが分かります。しかし、結果的にはその人が行った行為は相手に精神的な苦痛を与えるハラスメントとなってしまうのです。ハラスメントの加害者も被害者も互いの主観的な気持ちを語るだけでは、問題は何時になっても解決することがでません。そこで求められるのが事実はどうであるかという客観性です。ですからここで登場する証人たちは自分の気持ちを語るのではなく、事実がどうなのかと言うことを明らかにする勤めを持っているのです。

 しかし、イエスはそれだけでは不十分になる可能性があることをも続けて教えています。なぜなら、その証人でさえも必ずしも正しい判断を下すことができる訳ではないからです。また何よりもこの世の人の価値観はいつも変わっています。だから昔はよかったことが、今は赦されないということが起こってしまうのです。

「それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。」(17節)

 教会は人の変わりやすい価値観ではなく、決して変わることのない神の言葉によって、その人の犯した罪を明らかにします。もちろんそれはその人の罪を罰するためではなく、その人が自分の犯した罪を認めて、神に立ち返ることができるようになるために教会は働くのです。

「教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい」(17節)。

 このイエスの言葉を集めて福音書を記したマタイはキリスト教に改宗したユダヤ人たちのために奉仕していた人物と考えられています。ユダヤ人にとって自分が「異邦人か徴税人と同様に見な」されることは、死刑の判決を受けたのと同じような意味になります。ですからマタイはこの言葉を使って、人が悔い改めて神の元に立ち返らないことがどんなに重大なことかを伝えようとしているのです。しかし、ここでは余分なことかも知れませんが、同じマタイはイエスが「徴税人や罪人たち」の友となられたことを別の箇所で紹介しています(9章9~13節)。そう考えるとこの言葉は自分たちでは解決がつかなかった問題を、真の救い主であるイエスに委ね、彼らを救ってくださるようにと願う言葉だとも考えることができるのです。


4.なぜイエスが一緒にいてくださるのか

 いずれにしても、このお話の最初で皆さんにお話したように私たちは自分に対して罪を犯した相手を簡単に赦すことができません。「八つ裂きにしても飽き足らない」と怒りの感情が燃え上がらせるばかりで、自分が不当に取り扱われていることに我慢することができないのです。ですからイエスが教えてくださったように、相手を得るために、冷静になって対処することは私たちには不可能に近いように思えます。しかし、そのように自分では自分の抱える問題を解決することができない私たちにイエスは続けてこう語ってくださっています。

「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(19~20節)。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。

 今、私たちの教会の祈祷会に集まる人は多くはありません。そんなときにささげられる祈りの中で、ときどき、このイエスの言葉を引用される方がおられます。私たちはこのイエスの言葉を聞くと、人が少なくて心細くなっている私たちの気持ちが慰められるような気がします。しかしこのイエスの言葉で語られているように、イエスは何のために私たちと共にいてくださると約束してくださるのでしょうか。それは自分たちに対して罪を犯した兄弟が、その罪を悔い改めて、神の元に立ち返ることができるためです。イエスはそのことを実現するために私たちと共にいてくださると約束してくださるのです。私たちの力では不可能なことを、イエスがしてくださるために、イエスは私たちと共にいてくださるからです。

 罪を犯した兄弟に最も必要なことは、その罪が神よって赦されることです。私たちが兄弟の罪を許しても、それだけでは解決になりません。問題は破壊された人間関係の回復にあるのではなく、罪を犯した兄弟が神によって赦され、神との関係が回復されることにあるからです。だから、イエスはそのために私たちが二人、三人で集まって神に祈りをささげるなさいと教えてくださっているのです。そうすればイエスが私たちの壊れかけた人間関係を修復してくださった上で、私たちと神との関係を修復し、私たちの上に神の国を実現してくださるからです。

「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」。

 私たちは私たちのような小さな交わりを用いて、神の御心を今日も実現してくださるイエスの約束に信頼して信仰生活を歩みたいと思います。そして神が「兄弟を得るため」に私たちを用いてくださるようにイエスに祈り続けたいと思うのです。


…………… 祈り ……………

 天の父なる神さま。

 今日、御言葉を通して、私たちが互いを責めるのではなく、愛をもって兄弟を得ることを教えてくださり、ありがとうございます。私たちは、自分の正しさにこだわり、人を赦すことが難しい者です。どうか私たちの心を柔らかくし、傷つけられたときにも憎しみにとどまらず、赦しと和解を求めることができますようにしてください。また、私たち自身がキリストによって赦された者であることを、いつも覚えさせてください。

 「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいる」と約束してくださった主よ、私たちの教会の交わりのただ中にいてください。互いに愛し、支え合い、主にある平和をつくり出す教会としてください。

 主イエス・キリストの御名によって祈ります。アーメン。

【聖書研究のための設問】

1.15節で、イエスは兄弟が罪を犯したとき、最初に何をするよう教えておられますか。

2.「あなたは兄弟を得たことになる」という言葉から、教会で問題を解決する目的は何だと分かりますか。

3.なぜイエスは、いきなり教会全体に訴えるのではなく、二人、次に少人数、そして教会という段階を示されたのでしょうか。

4.18~19節の「つなぐ」「解く」「心を一つにして願う」という言葉は、15~17節の教えとどのようにつながっていますか。

5.20節の「わたしもその中にいる」という約束は、教会の中で人間関係の問題に向き合う私たちに、どのような慰めと励ましを与えますか。

2026.9.6「兄弟を得るために」